気づいたら笑っていなかった──笑顔が消えていく仕組みと、戻ってくる理由

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衛生管理者として職場のメンタルヘルス業務に関わっていた時期、私は多くの人の話を聞いてきました。毎朝出勤するたびに体が重い人、「悪い職場じゃないんですけど、なんかモヤモヤして」と言葉を選びながら話してくれる人。状況はさまざまでしたが、よく似た言葉が出てきました。

「最近、笑えていない気がして」

そしてある時、気がついたら、その言葉は私自身のことでもありました。ふと鏡を見たとき、いつから笑っていないのだろうと思ったことを覚えています。

笑えなくなったことに気づいたとき、自分が弱くなったのかもしれないと感じました。でも今から振り返ると、あの時期の笑顔の消え方には、きちんと構造的な理由があったのだということがわかります。

この記事では、笑顔がなくなっていくときに体の中で何が起きているのか、そしてどのようにして笑顔は戻ってくるのかを、心理学と身体科学の両面から読み解いていきます。笑えなくなることは弱さではなく、体と環境のあいだで起きている正直な反応です。

「最近笑っていないな」と感じている方に、少しでも届けばと思っています。

目次

笑えなくなるとき、体の中で何が起きているか


笑えなくなると、「気持ちが落ちているから」「気力がないから」と感情の問題として処理してしまいがちです。それも間違いではありません。ですが実際には、笑えなくなるとき、体の内側では具体的な生理的変化が起きています。

感情の変化は、むしろその結果として起きてくることが多いのです。

ストレスが続くと、脳が「笑えない状態」になっていく

仕事や環境からのプレッシャーが長期間続くと、体はそれをストレスとして認識し、副腎皮質からコルチゾールというホルモンを分泌します。コルチゾールは「ストレスホルモン」とも呼ばれますが、緊急時に体を動かすための重要なホルモンで、それ自体は必要なものです。

問題になるのは、慢性的に高い水準で分泌され続けるときです。長期的なストレス状態でコルチゾールが過剰に分泌され続けると、感情の処理に関わる脳の部位である扁桃体が過活性化し、ストレスや不安への反応が過敏になっていきます。それと同時に、気分の調節に深く関わる神経伝達物質・セロトニンの分泌が抑制されやすくなります。

セロトニンが不足していくと、楽しいはずのことに反応しにくくなり、「笑おうとしても笑えない」「なんとなく感情が動かない」という感覚が生まれます。これは意志の力でどうにかなる問題ではなく、脳内の化学的な状態が変化している状態です。

副交感神経の働く余地が、どんどん狭くなっていく

慢性的なストレス状態では、自律神経のうち「交感神経」が優位になり続けます。交感神経は体を「戦うか逃げるか」の状態に保つための神経です。心拍数を上げ、血管を収縮させ、筋肉を緊張させ、体全体を「いつでも動ける状態」に維持しようとします。

これに対して「副交感神経」は、リラックスや回復を担う神経です。消化を助け、呼吸を深くし、筋肉の緊張をほぐします。そして、笑い・食欲・深い眠りといった「余裕のある状態」を支えているのも副交感神経です。

交感神経が長期間優位であり続けると、副交感神経が働く余地が狭まっていきます。笑いというのは、体が「今は安全だ、余裕がある」と感じているときに自然と湧いてくるものです。体がずっと緊張状態にあるとき、笑いは後回しにされていきます。
また、慢性的なストレスはNK(ナチュラルキラー)細胞の働きを抑制することも知られており、免疫システム全体のバランスにも影響が及びます。

笑えなくなるのは、体の神経系が、長すぎる緊張状態に対して正直に反応している状態なのです。

消耗とやりがいのなさが、笑顔を遠ざけていた


笑顔が減っていく背景には、職場の「構造」が関わっていることがあります。それを説明する理論が二つあって、どちらも「個人の弱さや根性の問題ではない」という話です。後から産業・組織心理学を学んだとき、あの時期の自分に重ねてすとんと落ちてきました。

カラセクが示した「消耗の構造」

社会学者ロバート・カラセク(Robert Karasek)が1979年に提唱した「職務要求-コントロールモデル」では、仕事の負荷が高く、かつやり方を自分で決める余地が低い状態を「高緊張状態(High Strain)」と呼びます。忙しさそのものではなく、「忙しいのに自分で動けない」という組み合わせが最もストレスを高めるという理論です。

この状態が長く続くとき、体はコルチゾールを慢性的に分泌し続け、前述した副交感神経の働く余地を失っていきます。笑いは、体に余裕がなければ出てこないものです。

ハーズバーグが示した「やりがいの欠如」

心理学者フレデリック・ハーズバーグ(Frederick Herzberg)の「動機づけ-衛生理論」は、給与や職場環境といった「衛生要因」と、達成感・承認・成長といった「動機づけ要因」を別の軸として捉えます。環境が整っていても、仕事の内容にやりがいがなければ、人は宙ぶらりんの感覚を抱え続けます。

「悪い職場じゃないのに(笑えない)」という状態は、この構造から生まれます。やりがいのなさは個人の気持ちの持ち方の問題ではなく、仕事の設計の問題です。そのため、「もっとポジティブに考えよう」という言葉が効かないのも、当然のことなのです。

つながりが薄れると、笑いの機会そのものが消えていく


消耗ややりがいのなさとは別に、もう一つ笑顔を遠ざけるものがあります。
それが、「つながり」の問題です。

心理学者のエドワード・デシとリチャード・ライアンが提唱した自己決定理論(Self-Determination Theory)では、人には「自律性・有能感・関係性」という三つの基本的心理欲求があるとされています。
なかでも「関係性(Relatedness)」、すなわち、他者とのつながりや帰属感は、ウェルビーイングを支える土台の一つになります。そしてこの「関係性」は、笑いの機会そのものに直結しています。

笑いは、そもそも社会的な現象です。メリーランド大学の神経生物学者ロバート・プロバイン(Robert Provine)は、日常生活における笑いを詳細に観察し、人は一人でいるときよりも社会的な場面にいるときのほうが、約30倍笑いやすいことを明らかにしました(Provine & Fischer, 1989)。笑いを引き起こすのは「面白いもの」だけではなく、「誰かがそこにいること」そのものなのです。

さらに進化人類学者のロビン・ダンバー(Robin Dunbar)は、人間の笑いは霊長類における「グルーミング(毛づくろい)」に相当する機能を持つという仮説を提唱しています。グルーミングが群れの絆を維持する行為であるように、笑いは人間関係のつながりを補強し、信頼を育てる社会的な営みだという考え方です。

この視点から捉え直すと、職場のつながりが薄れていくことが笑顔に与える影響の深さが見えてきます。笑いは意図して生み出すものではなく、安心できる関係性の中で自然に発生するものです。そのような場所がなくなっていくとき、笑いは機会として減るだけでなく、笑いが本来持っている社会的な機能ごと失われていきます。

やりがいを感じられないうえに、安心して笑える場所もない。その状態が重なるとき、笑顔はずいぶんと遠いところへ行ってしまいます。

笑えなくなっていたとき、体に何が起きていたか


笑顔が減っていた時期、私はやたらと体の調子が悪かったことを覚えています。疲れが抜けない、肌荒れが続く、やたらと体が重い⋯。笑えない状態が続くということは、コルチゾールが慢性的に高く、副交感神経がうまく働けていない状態でもあります。その状態は、体のさまざまな機能に連鎖していきます。

免疫機能への影響

慢性的なストレス状態でコルチゾールが過剰に分泌されると、免疫機能への抑制が起きやすくなることが知られています。コルチゾールには免疫反応を調節する働きがありますが、長期的に高い状態が続くと、NK(ナチュラルキラー)細胞の働きが抑制されたり、免疫細胞間の情報伝達物質(サイトカイン)の合成が阻害されたりする可能性があります。

笑いとNK細胞の関係については、1991年に岡山県倉敷市・伊丹仁朗医師が行った研究が知られています。がん患者を吉本興業「なんばグランド花月」に連れて行き、大笑いの前後でNK細胞活性を測定したところ、低めだった人で活性の上昇が見られたという報告です。ただしこの分野の研究はまだ研究途上で、笑いが直接NK細胞を活性化するメカニズムが完全に解明されているわけではありません。

一方で、慢性的なストレスが免疫機能を低下させること自体は、多くの研究で繰り返し確認されています。笑えない時期によく風邪を引いた、体が回復しにくかった、という経験は、根拠のない話ではありません。

血圧・血糖値・肌への影響

副交感神経の働きが低下した状態では、血管が収縮しやすく、血圧が上がりやすくなります。逆に笑いや深い呼吸によって副交感神経が優位になると、血管がゆるんで血圧が安定しやすくなります。

血糖値については、糖尿病患者を対象にした研究の中に、食後に笑いがあるグループとそうでないグループを比較したものがあり、笑いがあるグループで食後血糖値の上昇が緩やかになる傾向が報告されています。これはストレスの軽減と、それに伴う自律神経のバランス回復が関係していると考えられています。

肌への影響も見逃せません。コルチゾールが慢性的に高い状態では、皮膚のコラーゲン分解が促進されやすくなり、バリア機能が低下する可能性があります。笑えなかった時期の肌荒れや肌のくすみも、コルチゾールの影響と無関係ではなかったかもしれません。

笑えないことと体調の悪さは、気のせいではありません。体の中で起きていることが、表に出てきているサインなのです。

環境が変わると、なぜ笑顔は戻ってくるのか

Smile


退職してしばらくしたとき、気がついたらちゃんと笑えるようになっていました。笑おうと思って笑ったわけではなく、ふと気づいたら、自然に笑っていたのです。

なぜそうなるのかを体の仕組みから考えると、理にかなっています。
高緊張状態が長期間続いていた神経系は、緊張の原因が取り除かれることで、徐々に再調整されていきます。
交感神経が優位になり続けていた状態から、副交感神経が働く余地が少しずつ生まれてきます。
コルチゾールの分泌が正常なリズムに戻り、セロトニンが本来の水準に近づいていきます。

そして、体が「今は安全だ」と感じ始めると、笑いを受け取れる状態に少しずつ近づいていきます。

笑顔が戻ってくるとき、体の中ではエンドルフィンも再び分泌されやすくなります。エンドルフィンは笑いや喜びとともに放出される神経伝達物質で、ストレスを和らげ、気分を明るくする作用があります。笑いがエンドルフィンを引き出し、エンドルフィンがさらに笑いを呼びやすくする。その循環が、少しずつ戻ってくるのです。

重要なのは、「笑顔が戻ってきたから良くなった」のではなく、「環境が変わったことで体の状態が変わり、笑いが自然に出てくるようになった」という順序です。笑顔は努力して取り戻すものではなく、体が回復するにつれて自然と戻ってくるものなのです。

笑顔はバロメーターでもあります。今の自分が笑えているかどうかを観察することは、体と環境の状態を知るための、一つの手がかりになります。

作り笑顔について、慎重に添えておきたいこと

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「笑えないときでも、口角を上げてみると気持ちが変わる」という話があります。これは「顔面フィードバック仮説」と呼ばれる考え方で、表情筋を動かすことが感情に影響を与えるというものです。

1988年に心理学者のフリッツ・シュトラック(Fritz Strack)が発表した研究はこの仮説を支持するものでしたが、その後、複数の再現研究で結果が分かれました。2019年に実施された51カ国・約3,900名が参加した大規模な検証(Many Smiles Collaboration)では、弱いながらも統計的に有意な効果が確認されています。現時点では「作り笑顔が感情に影響する可能性はある」というのが正確なところで、「確実に効く」とは言い切れない段階にあります。

一点だけ付け加えておきたいことがあります。作り笑顔を「しなければならない」状況が長く続くとき、本来の感情と表に出す感情のずれが大きくなり、それ自体がストレスになることがあります。これは「感情労働」と呼ばれる状態で、接客業や医療・福祉職に多く見られる消耗の一因です。

作り笑顔は、笑顔が戻ってくるまでの間に、ごく小さな補助として働く可能性はあります。ただ、笑えないときに無理に笑顔を強いることと、笑えるようになることは別の話です。笑えないときに、笑えない自分を責める必要はありません。

笑顔は、取り戻すものではなく戻ってくるものだった


衛生管理者として職場のメンタルヘルスに関わっていたとき、話を聞きながら私がいつも感じていたのは「この人はよく頑張っている」ということでした。消耗しながらも職場に出続け、笑顔を保とうとして、それでもうまくいかないと自分を責めている。

でも振り返ってみると、頑張ることで解決できる問題ではなかったのだと思います。笑えなくなるのは、弱さのせいでも、努力不足のせいでもありません。体が、置かれた環境に正直に反応していただけだったのです。

それは、後から自分自身の経験でも確認しました。退職してからしばらくして笑顔が戻ったのは、笑おうと努力したからではありませんでした。環境が変わり、体の神経系が少しずつ再調整され、気がついたら笑っていた。
そういうことでした。

「最近、笑っていないかもしれない」と気づいたとき、その気づき自体に意味があります。完全に感覚が閉じてしまっていたら、気づくこともできなかったはずです。気づけたということは、体はまだ信号を送り続けているということです。

そのサインが指しているのは、自分の弱さではありません。自分がどんな構造の中に置かれているかという話です。カラセクが示した高緊張状態の中にいるのかもしれない。ハーズバーグが示した動機づけ要因が欠けている環境にいるのかもしれない。あるいは、安心して笑えるつながりが薄くなっているのかもしれません。

何かを変えるかどうか、どう変えるかは、それぞれの状況があります。
そのため、すぐに答えが出ることばかりではありませんし、環境をすぐに変えることが難しい場合もあると思います。
ただ、自分を責めることに使っていたエネルギーを、「自分はいまどんな状態の中にいるのか」という観察に使ってみることで、気づけることもあるのではないかと思います。

笑顔は、取り戻すものではなく、体が整うにつれて自然に戻ってくるものです。それを知っているだけでも、笑えない今の自分を、少しだけ優しく扱えるようになるのではないでしょうか。

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