人は情報を味わっているのか——「差がわからない」のその先にあったもの

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おいしいものを食べていると、ある時点から、味の違いがよくわからなくなることがあります。少し良いお店のパスタと、もっと良いお店のパスタを食べ比べても、どちらも十分においしくて、正直、優劣がつけられません。これは単に私の舌が鈍いだけなのかもしれないと、長いあいだ思っていました。

同じような感覚を、別の場所でも味わったことがあります。
以前、化粧品メーカーで働いていたときのことです。仕事の一環で、他社の製品を購入してベンチマークすることがありました。成分や使用感を確かめて、自社の製品と比べてみるのですが、正直なところ、決定的な違いを言葉にすることができませんでした。技術的な品質という意味でも、ある水準を超えると、差というものが本当に小さくなっていくのではないか。そんな感覚が、ずっと頭の片隅に残っています。

馬鹿舌だからかもしれません。技術者として鈍いのかもしれません。そう思いながらも、同じようなことを感じている人は、案外多いのではないかという気もしていました。テレビの食レポで「これは全然違いますね」と言われている料理を、自分が食べたらきっと違いに気づけないだろうと思ったことがある人は、決して少なくないはずです。

だとすれば、その「差がわからない」という感覚の先で、何が私たちの満足感を作っているのでしょうか。自分の感覚が鈍いと結論づけてしまう前に、もう少し仕組みのほうを調べてみることにしました。

目次

「差がわからない」のは、感覚が鈍いからではないらしい


心理学には、弁別閾(べんべついき)という考え方があります。二つの刺激の違いを、人がちゃんと「違う」と感じ取れる、最小の差のことです。たとえば、100グラムの重さに1グラムを足しても、たいていの人は気づきません。重さを増やしていくと、ようやく「重くなった」と感じられる地点があり、そこから先で初めて違いとして認識されます。

ここでおもしろいのが、ドイツの生理学者エルンスト・ウェーバーが見つけた法則です。この最小の差は、もとの刺激が大きくなるほど必要な差も大きくなっていくというものです。重さの感覚であれば、おおよそ30分の1から40分の1程度の差がつかないと、人は「重くなった」と気づくことができません。100グラムのものなら3グラム程度の差があれば気づけますが、1000グラムのものなら30グラム程度の差が必要になる、というイメージです。これを「ウェーバー比」と呼びます。(私の感覚では1グラムが3グラムになったところで気づけないような気がしてしまいますが、学術的にはしっかりと示されているわけですね⋯。)

そして、味や匂いのような感覚にも、同じ構造があるとされています。

つまり、ある程度おいしいものを食べ続けていると、そこからさらに「もっとおいしく」しようとしても、その差はすでに、人間の感覚にとって気づける範囲を超えてしまっている可能性があるのです。味覚音痴だから差がわからないのではなく、人間の知覚そのものが、もともとそういう仕組みでできているということです。

コーヒーや香水の世界でも、似たような話を聞くことがあります。豆の産地や抽出時間を細かく変えた違いを語れるのは、よほど訓練を積んだ人だけで、ある程度おいしいコーヒーを何種類か飲み比べても、多くの人はその先の細かな差までは言葉にできません。これも、舌や鼻の性能が低いからではなく、知覚そのものに、もともとそういう限界があるからだと考えると、納得がいきます。

ちなみに、この「気づかれない範囲」は、作る側もよく理解しているようです。マーケティングの世界では、ブランドの一貫したイメージを保ちながら少しずつ製品を改良していくために、この気づかれない差の範囲内で、パッケージや味を変えていく手法があるとされています。私たちが「差がわからない」と感じているとき、作り手側はその「わからなさ」を、ちゃんと計算に入れて製品を動かしているということになります。

プロでも、同じことが起きていた


自分の舌が鈍いだけなら仕方がないとも思っていたのですが、調べていくと、訓練を積んだプロの世界でも、似たようなことが起きているようです。

同じワインが、金賞と無冠を行き来する

カリフォルニアで統計学を教えていたロバート・ホジソンという人物が、ワインの審査会の信頼性を調べた研究があります。審査員たちに、まったく同じワインを、同じ大会の中でブラインドの状態にして、複数回テイスティングさせるという内容です。

結果は、なかなか衝撃的なものでした。同じワインに対する点数が、ある審査員では90点だったものが、別のタイミングでは86点、さらに別のタイミングでは94点と、大きくブレてしまっていたのです。評価が安定していた審査員は、全体のおよそ10パーセントほどしかいなかったとされています。残りの審査員の中には、同じワインに金賞を出すこともあれば、何の賞も与えないこともあるという人も含まれていました。大会をまたいで見ても、ある大会で金賞を取ったワインのほとんどは、別の大会では何の賞も取れていない、という指摘もあります。

これは、審査員の能力が低いという話ではないと思っています。むしろ、ある水準を超えたワインの優劣を、統計的に意味のある精度で判定すること自体が、もともととても難しいということを示しているのではないかと思うのです。

無名のワインが、伝統国を打ち破った日

もう一つ、有名な出来事があります。1976年、パリで行われたワインの試飲会です。フランスの著名な審査員たちが、フランスワインとアメリカワインを、ブランド名を伏せたブラインドの状態で飲み比べました。結果、当時は「安物」とまで言われていたアメリカの無名のワインが、赤も白も1位を取ってしまったのです。

この結果に、フランス側は大きく反発しました。審査員の一人が、投票用紙を取り返そうとしたという逸話まで残っています。後に「パリの審判」と呼ばれ、何年も語り継がれることになったこの出来事は、長く積み上げられてきたブランドや産地の名声と、実際に舌で感じ取れる差というものが、必ずしも一致しないことを、世界中に示してしまった出来事でした。

ここまで読んで、化粧品メーカーでのベンチマークのことを、改めて思い出しました。あのとき感じた「差がわからない」という戸惑いは、技術者としての力不足ではなく、ある水準を超えた製品同士を比べるときに、誰の身にも起こり得ることだったのです。プロのワイン審査員でさえ、同じワインに金賞と無冠を出し分けてしまうのだとすれば、私が他社の化粧水と自社の化粧水の差をうまく言葉にできなかったことも、それほど不思議な話ではなかったのだと思います。

その先の「美味しさ(魅力)」を作っているのは、情報だった


差がわからなくなる地点があり、プロでもその先の優劣を正確には測れない。だとすると、私たちが普段「これは美味しい」「これは質が良い」と感じている満足感は、いったい何によって生まれているのでしょうか。ここから少し、脳の中で起きていることに踏み込んでみたいと思います。

値札だけで、脳の快感信号が変わる

カリフォルニア工科大学とスタンフォード大学の共同研究チームが行った実験があります。参加者には、5ドル、10ドル、35ドル、45ドル、90ドルという価格の違う5種類の赤ワインを飲んでもらう、と伝えられていました。ところが実際に使われていたワインは3種類だけで、本来5ドルのワインには45ドルという偽のラベルを、本来90ドルのワインには10ドルという偽のラベルをつけて、同じワインを価格だけ変えて2回飲ませる、という仕掛けが施されていました。試飲している間、参加者の脳の活動はfMRIという装置で記録されていました。

結果、参加者は一貫して、価格の高いラベルが付いたワインのほうを、より美味しいと評価しました。実際には同じワインを飲んでいるにもかかわらずです。さらに興味深いのは、脳の中で価格そのものに反応していたとみられる部位、快感に関わる眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)という領域の活動が、価格ラベルが高くなるほど大きくなっていたという点です。これは、頭の中で「高いから美味しいはずだ」と理屈をこねて自分を納得させているのではなく、脳の快感の信号そのものが、価格という情報によって本当に書き換えられていたということを示しています。

ブランド名だけで、使われる脳の場所が変わる

似たような実験が、コーラでも行われています。2004年に発表された研究で、参加者にコカ・コーラとペプシコーラを飲んでもらい、脳の活動を比較するというものです。

ブランド名を隠した状態で飲んでもらったときは、味覚や快感に関わる脳の部位だけが反応し、コカ・コーラとペプシコーラのあいだに目立った差は見られませんでした。ところが、コカ・コーラのラベルを見せた状態で飲んでもらったときには、記憶や連想といった高度な認知に関わる、背外側前頭前野(はいがいそくぜんとうぜんや)という部位が、コカ・コーラのときだけ強く反応していたのです。ペプシコーラでは、この部位の反応は見られませんでした。ブランド名という一枚のラベルが、脳の中で使われる場所そのものを変えてしまう。そう考えると、味とブランドを、きれいに分けて語ることのほうが、実はかなり難しいのかもしれません。

色という情報に、舌が引きずられる

最後に、ボルドー大学で行われた、もう一つの実験を紹介します。ワイン醸造学を学ぶ学生たちに、白ワインと、食紅で赤く着色しただけの同じ白ワインを、それぞれ飲み比べてもらうという内容です。

味そのものはまったく同じはずなのに、色を赤くされたワインに対して、被験者たちは「ラズベリーのような」といった、赤ワインを表現するときに使う言葉で、香りや味わいを語ってしまったといいます。ワインを学んでいる人であっても、目から入ってくる色という情報には、簡単に引きずられてしまったわけです。味覚というものは、思っている以上に、ほかの感覚や情報と分けて働いてはいないのかもしれません。

値札、ブランド名、色。並べてみると、どれも味そのものとは関係のない、いわば外側についている情報です。それでも、脳の中で起きていることまで変わってしまうのだとすれば、その外側の情報は、もう「味を誤解させる飾り」ではなく、満足感そのものを構成する一部になっていると考えたほうが、実態に近いのだと思います。

美味しさの先にあるのは、情報というより「芸」なのではないか


ここまでの話を振り返ると、ある水準を超えた先の「美味しさ」や「満足感」を動かしているのは、価格やブランド名、色といった情報であるらしい、ということになります。ただ、私はもう少し先まで考えてみたいと思っています。その情報が、実際にはなにを運んでいるのか、ということです。

食卓の上で起きている、終わりのない創作

一定の水準を超えたあとの「もっと美味しく」という競争は、私には、味そのものの勝負ではなくなっているように見えます。代わりに始まっているのは、器の選び方、盛り付けの構成、店内の空気、料理が出てくるまでの間の取り方、素材の生まれた土地の物語といった、別の種類の創作です。これはもう、料理という機能の話ではなく、絵画や陶芸、園芸に近い、芸術や工芸の領域の話なのではないかと思っています。

そう考えると、高級レストランよりも牛丼のほうが好きだという人が、もし自分の感覚にどこか後ろめたさを感じているのなら、それはまったく的外れな後ろめたさと言い切れそうです。つまり、舌が劣っているわけではなく、単に、その先に広がる「芸」という分野に、興味の重心がないというだけのことです。美術館で、古典絵画の前に長く立ち止まる人もいれば、現代アートの展示室で足が止まる人もいます。逆に、よくわからず素通りする方もいます。それと同じように、料理という「芸」のどの部分に心を動かされるかは、人によって違っていて当然なのだと思います。

懐石料理で器がひとつひとつ替わっていくことや、寿司屋で職人がネタを置く順番にこだわることも、味そのものというより、この「芸」の部分に当たるのだと思います。それを楽しめる人がいる一方で、その手間よりも、温かいうちに勢いよく食べられる牛丼の満足感のほうが好きだという人がいるのも、ごく自然なことなのだと思います。

化粧品の容器が、重くなっていく理由

化粧品の世界にも、よく似た構造があるように感じています。配合や効果という、技術的な品質がある水準に達してしまうと、その先で伸びていくのは、容器の質感、ブランドが背負ってきた歴史、広告に流れる世界観だったりします。容器がどんどん重厚になっていったり、ブランドの物語が丁寧に語られるようになっていったりするのは、技術の伸びしろが小さくなった先で、別の種類の創作が始まっている、ということなのかもしれません。

これも、悪いことだとは思っていません。技術の差が見えにくくなった先で、人の手によって新しい価値が生み出され続けているということでもあります。重い瓶のふたを開けるときの手応えや、箱を開けたときに漂う香りも、誰かが時間をかけて設計した、期待感を演出するための立派な創作物のひとつです。ただ、自分が払っているお金や、感じている満足感のうち、どれくらいが成分の力で、どれくらいが容器や物語という「芸」の力なのかを、たまに思い出してみるのは、悪くない習慣のような気がしています。

好きなものは、好きなままでいい


ここまで、味や品質の差がわからなくなる仕組みと、その先で満足感を作っている情報の力について、考えてきました。最後に、自分の中に残っている感覚を、正直に書いておきたいと思います。

美味しいという感覚を、無理に疑う必要はないのだと思っています。高級なレストランで感じる感動も、牛丼を食べたときに感じる満足も、どちらも本当に自分が感じたものです。ただ、その感覚の中には、舌そのものが感じている分と、価格やブランド、誰が作ったかという情報が感じさせている分とが、たぶん分けられないまま混ざり合って乗っています。どちらが本物で、どちらが偽物だということではなく、両方が合わさって、初めて一つの満足感になっているのだと思います。

だからこそ、好きなものは、これからも好きなままでいいのだと思います。高級なものに心を動かされない自分を、後ろめたく感じる必要もないですし、ブランドに心を動かされる自分を、浅いと思う必要もありません。ただ、自分が「美味しい」と感じているとき、そこに味だけでなく、情報という名の何かが、静かに同席していることを知っておく。それだけで十分なのではないかと思っています。

知ったところで、何かが変わるわけでもないのだと思います。値段を見て美味しく感じてしまうことも、パッケージに惹かれて手に取ってしまうことも、これからもきっと続いていきます。でも、それでいいのだと思います。
ただ、その同席している何かに、たまに気づいてあげられるだけで、自分が何にお金を払い、何に心を動かされているのかが、少しだけ見えやすくなる気がしています。

人は、情報を食べて生きているのかもしれません。
そう思って改めてこの世界を眺めてみると、いつもと同じ景色が、これまでとは少しだけ違う顔をして、そこに置かれているように見えてきます。

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