世の中は思っている以上に歪だと思う。
それゆえに、美しいのではないか、とも。

子どもの頃、世界は完璧に見えていた

子どもの頃、世界はどこか完成されたものに見えていました。
商店街を歩けば、店員さんは笑顔で立っていて、商品はきれいに整然と並んでいる。
道は真っ直ぐに伸びていて、信号はきちんと赤と青を繰り返す。橋は川をまたぎ、電車は時刻通りにやってくる。
病院に行けば、白衣を着た人たちが難しいことを知っていて、学校の先生は答えを知っている。
世界というものは、誰かによってあらかじめ設計され、完成した状態で置かれているのだと、なんとなくそう思っていた気がします。
それを疑う理由が、どこにもなかった。
大人たちは皆、何かを理解していて、だから自信を持って動いているようにも見えた。
でも裏を返せば、見えているものだけが全てだった。
だからこそ、世界が一枚の絵のように見えていたのです。
完璧で、整っていて、どこかに正解が書いてある、そんな確かな感覚。
社会に出て、初めてつなぎ目が見えるようになった

でも、社会に出ると、少しずつその景色が変わっていきます。
完璧に見えていたはずの世界に、いつの間にか継ぎ目が見えてくる。
多くの人たちの笑顔の裏にある本音と建前、完璧な接客の裏にあるマニュアルやその人の気苦労と創意工夫、そして疲労。製品の美しいパッケージの裏にある、試作と失敗の繰り返し。製品を作る人が居て、運ぶ人が居て、お店に並べる人が居て——。
道路だってそう。誰かが設計図を描いて、別の誰かがアスファルトを敷くかコンクリートを敷くかを交通状況から判断して、別の誰かが工事して、また別の誰かが何十年も点検を続けている。
完璧なのではなく、無数の不完全なものが、なんとかして噛み合っている。
社会に出るとは、不完全なものを繋ぐことなのかもしれません。
その気づきは、少し寂しさを伴うこともあります。
完璧だと思っていた世界が、実は継ぎ接ぎだと知る感覚は、どこか幻滅に似ています。でも同時に、どこかほっとするような感覚もあります。世界は最初から完璧ではなかった。
それならば、自分がうまくいかないことも、少し当然のことに思えてくるからです。
道路を分解してみる
たとえば、私の大学の頃の専攻絡みの道路工学をもとに「道を走る」という何気ない行為を分解してみます。
まず道路そのものがあります。
アスファルト(またはコンクリート)を舗装する会社、路盤を設計する土木技術者、橋梁を架ける建設会社——これらはそれぞれ独立した組織であり、互いに相手の仕事のすべてを理解しているわけではありません。
道路の舗装を担う会社が、橋の構造計算の細部を知る必要はなく、橋梁エンジニアが路面の骨材の配合を熟知している必要もありません。それぞれが、それぞれの専門の範囲で、精一杯の仕事をしているわけです。
ここで補足しておくと、スーパーゼネコンや準大手ゼネコンはもしかしたら自社で全て賄えるのかもしれません。ただ、必要に応じてJV(ジョイントベンチャー:建設共同企業体)という形態を取っているのを見かけると、自社で賄えない範囲もあるものと推察されます。
その道路の上には交通ルールがあります。道路交通法という法律が存在し、それは時代に合わせて何度も改正されてきました。昭和35年の施行以来、自動車の増加、高速道路の普及、高齢化社会への対応、近年では電動キックボードの登場まで——社会の変化のたびに書き直され続けています。
「完成した法律」などというものはなく、常に「今の社会に合わせようとしている途中の法律」です。
信号機にも、独自の技術と歴史があります。LEDへの切り替え、点灯サイクルの調整、歩行者用の音響信号、視覚障害者誘導用の装置——それぞれに専門の技術者がいて、研究があって、議論があります。全国の信号機が一斉に更新されたわけではなく、地域ごとに異なるタイミングで、少しずつ変わってきました。
自動車メーカーはまた別の世界です。エンジン、ブレーキ、タイヤなど、一台の自動車には数万点に及ぶ部品が使われていて、そのほとんどが異なるメーカーから調達されています。それぞれの部品に、それぞれの開発の歴史があります。
これだけ別々に成り立っているものが、「車で道を走る」という体験としてひとつに溶け合っている。
改めて考えると、ずいぶん不思議なことです。
信号機を例とした裏側
信号機の話をもう少し続けます。
日本の信号機は全国でおよそ21万基あると言われています(警察庁、令和4年度交通安全白書)。それらを管理しているのは各都道府県の警察で、更新や維持管理を担うのは信号機メーカーです。点灯パターンは地域によって微妙に異なり、交差点の形状や交通量に合わせて個別に設定されています。
ある交差点の信号は、近隣の交差点と連動して動いていることがあります。「系統制御」と呼ばれる仕組みで、主要な幹線道路をできるだけスムーズに車が流れるよう、複数の信号のタイミングがまとめて調整されています。それでもラッシュ時には渋滞が起き、工事や事故で計算が狂い、その都度また調整が加わります。
それでも私たちは、どこの交差点でも迷わず止まれます。
「赤は止まれ」というたった一つの共通認識が、この複雑な全体を支えています。
完璧なシステムがあるから機能しているのではなく、不完全なパーツたちが共通の文法を持つことで、全体が動いている。そう考えると、少し見え方が変わってきます。

途方もない時間の上に、いまがある

道路のことを考えていると、もう一つのことに気がつきます。
私たちが「いま」使っているものの多くは、何十年、何百年という時間の積み重ねの上にあります。
アスファルト舗装の技術は19世紀から始まり、交通法規のルーツは馬車が行き交う時代にまで遡ります。橋の建設技術は何千年もの歴史を持ち、日本の道路網のかなりの部分は、江戸時代の街道の名残をたどっています。江戸五街道のうち、東海道の宿場町として栄えた場所が、現代の国道の起点に重なっていることは珍しくありません。
法律もそうです。現在の民法の多くは明治時代に制定されたものをベースにしていて、それよりも前のヨーロッパの法体系——とりわけフランス法やドイツ法を参照しながら作られました。そのヨーロッパの法律は、古代ローマ法を引き継いでいます。「法の下の平等」という概念がどこから来たのかを辿ると、何百年もの歴史の連鎖が続いていることが伺えます。
「ゼロから誰かが作った」ものは、実はほとんどありません。過去の誰かの試みの上に、別の誰かが積み上げ、また別の誰かが修正を加え、さらに別の誰かが引き継いだ。
その長い連鎖の末端に、今の私たちがいます。
そう気づいたとき、少し立ちくらみのような、途方もないような感覚を覚えます。
自分という存在が、その長い鎖のほんの一つの輪に過ぎないことを実感するからかもしれません。
でも同時に、自分もその鎖を構成する一部なのだという、ひそかな連帯感のようなものも感じます。
「いま」という時間は、ただ流れているのではなく、誰かが継ぎ続けてきたものの、今日の姿なのだと。

「創発」——バラバラなものがひとつになる

この現象に、科学は「創発(emergence)」という名前をつけています。
創発とは、個々の要素には存在しない性質や機能が、それらが組み合わさることで突然現れる現象のことです。哲学者アリストテレスは「全体は部分の総和以上のものである」という言葉を残しています。現代の複雑系科学が取り組んでいるのも、まさにこの問いです。
わかりやすい例を一つ挙げると、水があります。水素原子も酸素原子も、それ単独では「濡れている」という性質を持ちません。ところが二つが結びついて水(H₂O)になった瞬間、「濡れる」という性質が生まれます。
それぞれにはなかった特徴が、組み合わさることで出現する。これが創発の基本的な考え方です。
アメリカのサンタフェ研究所は、1984年の設立以来、経済・生態系・都市・気候など、さまざまな複雑なシステムを研究してきました。その中核にあるのが、「単純なルールの組み合わせが、予測不可能な複雑さを生み出す」という洞察です。
アリは道を知らない
アリの巣を例に考えてみます。
働きアリ一匹一匹には、巣全体の設計図はありません。どこに部屋を作るか、どの通路をどのくらいの太さにするか——そういった「全体像」を知っているアリは、女王アリを含めて一匹もいません。それぞれがフェロモンという化学信号に従って行動しているだけです。
あるアリがエサを見つけると、帰り道にフェロモンを残します。別のアリがそのフェロモンを追って同じ道を通ると、フェロモンが強化されます。逆に、エサのないルートのフェロモンは上書きされない(アリが通らない)ため揮発して薄れていきます。それだけのシンプルな仕組みが、やがて最短経路の発見につながります。
巣そのものについても、環境に残された痕跡(フェロモンや積み上げられた土など)が、次の個体の行動を誘発する「スティグマジー」と呼ばれる仕組みにより驚くほど精巧に作られます。温度を一定に保つための換気構造、食料の保管室、育児室、ゴミ捨て場——まるで誰かが設計したかのような機能性を持っています。しかし誰も設計していません。それぞれの『部分』は「全体のことを知らない」のに、『全体』は賢く機能する。これが創発の不思議さです。
また、少し逸れますが、ムクドリの群れが空を舞うとき、あの複雑な形を描く動きも同じです。「ボイド」と呼ばれるシミュレーションモデルによると、各個体は「群れ全体の形」を意識せず、ただ、隣の個体との距離と向きというシンプルなルールに従っているだけです。それが何千羽も集まると、まるで意志を持った一つの生き物のような軌跡が生まれます。
都市を育てる、見えない設計図
都市の形成もまた、創発の好例です。
もちろん、道路の配置やインフラは都市計画によって設計されます。しかし、その街にどんな活気が宿り、どのようなコミュニティが育つかという『都市の質』までは、誰も設計することはできません。
都市計画家のジェーン・ジェイコブスは、著書『アメリカ大都市の死と生』(1961年)の中で、トップダウンの都市計画への批判を展開しました。清潔で機能的に整備された再開発地区よりも、古い建物と新しい建物が混在し、路地が入り組んだ地区の方が、実際には活気があり、コミュニティとしての強さを持っている——と彼女は指摘します。
人が有機的に集まり、路地が生まれ、商店が軒を連ね、にぎわいが別のにぎわいを呼ぶ。誰も「この街をこう設計しよう」と決めたわけではないのに、そこには確かな秩序が生まれています。
整然と計画された都市よりも、少し乱雑で継ぎ目だらけの街の方が、かえって人間らしい生命力を宿している。その事実は、効率や完璧さを求めがちな私たちの日常の在り方に、大切な視点を与えてくれているように思います。
不完全さが積み重なって、世界は動いている

私は製薬メーカーで働いていたことがあるのですが、製品を作るのって実はすごく大変なことなんです。
ひとつの製品が世に出るまでには、処方の開発から始まり、安定性の試験、品質規格の設定、臨床検査、製造手順書の作成、製造設備の適格性評価、行政機関への申請と承認、能書(添付文書)や容器・外箱のデザイン、他——といった多くの工程があります。そのどこかで一つでも問題が起これば、その製品は市場に出ることができません。また、治療薬などは最低でも5年以上はかかります。
さらに言えば、一度承認を受けた製品であっても、製造のたびに記録を取り、試験・検査をし、何か通常と異なることがあれば調査をして報告書をまとめます。「何事もなかった日」の記録もまた、膨大な量になります。ここには、異常がなかったことを証明するための記録、というものが存在します。
もちろん、「うまくいかなかったとき」の記録もしっかりと残します。
これらの記録は、後になればなるほど価値を持つことになります。
「なぜ失敗したのか?」「なぜうまくいったのか?」を客観的に分析できるためです。
完成品を手に取る側には、そのプロセスはまったく見えません。
見えないように設計されている、とも言えます。
美しいパッケージの裏に、膨大な試行錯誤と地味な記録作業が積み重なっていることを、消費者は知る必要もないわけですし、作る側もわざわざ知らせる必要もないわけです。でも、確かにそこにあります。
もちろん、医薬品そのものは厳格に完成された品質でなければなりません。しかし、そのひとつが生まれるまでの『過程』は、決してスマートなものではありません。膨大な失敗の記録や、予期せぬ反応への対処、泥臭い検証の積み重ね——。消費者が手にする『完成品』は、そうした気の遠くなるような試行錯誤という名の『不完全な時間の集積』によって支えられているのです。

学芸員として働いていたときにも同じような感覚を持ちました。
展示ケースの中に収められた資料のひとつひとつには、受け入れから始まる記録作業があります。資料の状態を確認し、写真を撮り、台帳に記載し、適切な収蔵環境に保管する。このとき、適切な収蔵環境においては、温湿度が適切かを日々チェックしたりもします。修復が必要なものは専門家に依頼し、その記録もまた丁寧に残します。そして来館者の目に触れるのは、そのずっと後の話です。
「展示されているもの」は、常に氷山の一角です。水面下には、選ばれなかった資料や没になった展示案などが沈んでいます。表に出ているものの完成度は、出ていないものの存在によって支えられているとも言えます。
世の中の「完璧なもの」の多くは、「完璧に見えるように仕上げられたもの」です。
そしてその「仕上げ」自体も、無数の不完全な試みの上に成り立っています。
成功の物語は語られやすく、失敗の記録は語られにくい。でも実際には、その語られない部分の方が、ずっと分厚いのです。
調和の中に、自分もいる

「うまくできない」と感じていること、「まだ完成していない」と感じている自分自身も、この世界の構造と同じなのかもしれません。
道路が完璧だから機能しているのではなく、信号が完璧だから交通が成り立っているのでもなく、それぞれが不完全なままに、どうにかして噛み合っているから世界が動いています。
アリ一匹が巣の全体像を知らなくても、巣は完成します。都市を設計した人がいなくても、街は生きています。法律が完成していなくても、社会は動いています。
「完成してから動く」という考え方は、どこかで世界の実態とすれ違っているのかもしれません。
世界は最初から、完成しないまま動き続けてきたからです。道路も、法律も、都市形成も、博物館の展示も——どれもみな、「今もまだ途中」です。
不完全なまま存在すること、不完全なまま誰かと関わること、不完全なまま何かを作り続けること——それ自体がすでに、この世界の調和の一部になっています。
完成を待たなくても、あなたもわたしもすでにその巨大な連鎖の中にいます。
子どもの頃に見ていた「完成された世界」は、幻ではありませんでした。
ただそれは、無数の不完全が寄り集まって生まれた、もうひとつの真実の姿だったのです。
繋ぎ目が見えるようになったとき、世界は壊れたのではなく、もっと深く見えるようになったのだと、今は思っています。
その繋ぎ目の一つに、あなたも、わたしも、今ここにいるのだと思います。


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