「得意なことがわからない」のは、自分の中だけで探しているからかもしれない

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「得意なことは何ですか?」

この質問が来た瞬間に、頭の中がすっと静かになってしまった経験はありませんか?
就職活動の面接、初対面の場での自己紹介、あるいは何気ない会話の流れで突然聞かれて、「特にこれといって……」と言葉を濁してしまう。

まったく何もできないわけではないとは、自分でもわかっています。
何かはやってきたはずだし、それなりに仕事もしてきました。
でも、「得意なこと」と呼べるものが何なのかを言葉にできません。
考えれば考えるほど、かえって霧の中に入っていくような感覚があります。

この感覚、実はかなり多くの人が持っています。
そしてその原因の多くは、得意なことがないからではなく、探す場所が違うから見つけられないだけかもしれません。

目次

自分の中で探しても、見つからない理由がある


「得意なことを探してみよう」と思ったとき、多くの人はまず自分の記憶や経験の中を掘り起こすところから始めます。過去に褒められたことはないか、続けてこられたことは何か、やっていると楽しいと感じることは何か。
じっくり振り返りながら、何かヒントを探してみる。

でも、なかなか出てきません。
うっすら浮かびかけても「これくらい誰でもできるよな」「まだ十分ではないし」と打ち消してしまう。
さらに深く考えれば考えるほど、余計に見えなくなっていく。
探す時間が長くなればなるほど、むしろ遠ざかっていくような感覚に陥ることさえあります。

この現象には、認知的な理由があります。
「得意であればあるほど、自分には見えにくい」という構造がそこに働いているからです。

能力は、使いこなすほど意識の外に出ていく

心理学や教育の分野には、「能力の4段階モデル」と呼ばれる考え方があります。1970年代にGTI(Gordon Training International:臨床心理学者トマス・ゴードン博士によって設立された対人関係とコミュニケーション能力向上を目的とした研修組織)のノエル・バーチが提唱したとされるこのモデルは、ある能力を身につけていく過程を4つの段階で説明しています。

第1段階は「無意識的無能」です。
自分にできないことがあること自体に、まだ気づいていない状態。たとえば、料理を始める前の人が「火加減の調整がいかに難しいか」をまだ知らない、あの状態です。

次に第2段階「意識的無能」では、できないと自覚します。
やってみて初めて難しさに気づく段階で、多くの場合ここから学びが始まります。

第3段階「意識的有能」は、意識して取り組めばできるようになった段階。まだ注意が必要で、頭を使いながら行います。

そして第4段階が「無意識的有能」です。

第4段階に到達すると、その能力を使うことに意識を向けなくなります。自転車に乗るとき、「今バランスが右に傾いたから左に体重を移して……」と考えながらこいでいる人はいません。体が勝手に動いている。それが「無意識的有能」の状態です。熟練した運転者がほぼ無意識でハンドルを操作するように、その能力は意識の外で動くようになります。

ここが核心で、この段階まで習熟した能力は、自分では「やって当然のこと」として処理されるようになります。意識の中で大きなスペースを占めていないため、「これが得意なことだ」とはなかなか認識できず、むしろ「これくらい誰でもできるだろう」という判断が自動的に出てきてしまいます。

つまり、得意であればあるほど自覚しにくくなるという状態が、ここに起きています。得意なことを自分のなかで探しても見つからないのは、そもそも意識の中に浮かび上がりにくい場所にあるからなのです。

完璧さを基準にすると、得意がさらに遠のく

もうひとつ、得意なことを見えにくくしている要因があります。それは「得意なこととは、完璧にできることだ」という暗黙の基準です。

「でも自分より上手い人がいるから」「まだ完璧にはできないから」「これくらい普通でしょう」。
こういった判断で候補から外していくと、最終的に何も残らなくなります。そして、この基準で考えると、世の中のほぼ全員が「得意なことがない人」になってしまいます。

そもそも、「完璧にできること」が得意なことの定義であれば、専門家であっても得意なことを持てる人はごくわずかになってしまいます。完璧な演奏ができるピアニストのみが「ピアノが得意」と言えるのか、といえばそうではないはずです。得意なことと完璧さは、本来別の話なのです。

それでも、この基準を自分の中に無意識に設定してしまいやすいのには理由があります。完璧主義的な認知の傾向を持つ人ほど、「これくらいでは不十分」という判断が先に立ちやすくなり、得意なことを探している最中でさえ、その探し方自体が完璧主義の影響を受けてしまっているのです。

自分の内側だけを向いて「得意なことがない」と感じているとき、その多くは「得意なことがない」のではなく、「得意なことが当たり前になりすぎて意識に上らない」か「完璧ではないから除外している」のどちらか、あるいはその両方です。

その場合、探す場所と基準を変えてみることで、見える景色が変わってくるかもしれません。

答えは、自分の外にある


では、どこを向けば得意なことが見えてくるのでしょうか。意外に思われるかもしれませんが、ひとつの有効な手がかりが「他者へのイライラ」の中にあります。

他の人を見て「なんでこれができないんだろう」「どうしてこうなるのかわからない」と感じる場面は、誰にでも多かれ少なかれあるはずです。この感情は批判や不満として処理されてしまいがちですが、その底には、自分自身についての情報が含まれています。感情を手がかりにするというのは少し不思議に思えるかもしれませんが、感情は本来、自分の価値観や習熟の痕跡が表れる場所でもあります。

他者へのイライラが持つ、意外な情報量

人が他者の行動にイライラするとき、多くの場合それは自分の価値観や基準が反応しています。「この行動はおかしい」と感じるとき、その判断の前提には「こうあるべき」という自分なりの基準があります。そしてその基準は、自分が自然にできていることと連動していることがほとんどです。

たとえば、「なぜ話す前に相手の立場を考えないのか」とイライラするなら、その人は相手の立場に立つことを無意識にやっています。
「なぜ書類のこのミスに気づかないのか」と感じるなら、その人には細部を見る目が自然に働いています。
「なぜ約束の時間が守れないのか」がどうしても理解できない人は、時間への意識が体に染み付いているということです。
「なぜこの状況でこの一言が言えないのか」と感じるなら、場の空気を読んで言葉を選ぶことが、その人にとっては当然のことになっています。

組織心理学の研究者マーカス・バッキンガムは、強みについて考えるとき、「繰り返し行ってもエネルギーが湧く活動」という視点とともに、「なぜ他の人がこれをできないのかが理解できない」という感覚が、強みのサインになり得ることを指摘しています。できない状態を想像するのが難しいほど、それは自分にとって自然な能力になっているということです。

もちろん、イライラの全てが得意なことを示しているわけではありません。疲れや余裕のなさから来るもの、相手との単純な習慣の違いから来るものなど、様々な要因が絡み合っています。ただ、特定の場面で繰り返し同じ反応が出るとき、そこには自分の中の何らかの基準が存在しています。
その基準が、「自分には当然のこと」として習熟した能力の在処を指し示している可能性があるのです。

「なぜできないのか」という感覚の正体

「なぜこれができないのか」という感覚は、相手への批判として受け取られることが多いですが、その感覚の本質は批判ではなく、「自分にはこれが当然にできる」という感覚の裏返しです。

できない状態を想像するのが難しい、というのが重要な点です。「まあ難しいのはわかるけれど」という頭での理解はできても、なぜそこで詰まるのかが感覚的に腑に落ちない。この感覚の断絶こそが、「自分がその能力を無意識的有能の段階まで習熟させている」ということのひとつのサインです。

たとえば、文章を書くことに慣れている人は、「文章が書けない」という感覚を持つ人の詰まり方が、なかなかピンとこないことがあります。「書き始めさえすれば進むじゃないか」と思ってしまいます。でも、書き始めることに対して強い抵抗を感じる人には、その感覚が現実として存在しています。
「書き始めることが難しい」という状態を、書くことが身についた人は再現できなくなっているのです。

同じように、段取りを組むのが自然にできる人には、何から手をつけていいかわからなくてフリーズする感覚がなかなか想像できません。また、数字を見て違和感に気づける人には、見落としが起きる感覚はわかりにくいものです。
どの場面においても、能力の習熟が進んだ人は「できない状態」への想像力が薄れていきます。

「なぜできないんだろう」という感覚の裏に、「自分にはごく自然にできること」が隠れているわけです。その視点の置き方が、得意なことを探すひとつの手がかりになります。

あなたの当たり前は、誰かにとっての特別


「得意なことがわからない」という感覚の根っこには、「自分の世界の中だけで探している」という構造があります。自分にとって当然のことは、自分の視野には入りにくいものです。自問自答の方法をどれだけ工夫しても、見える範囲の外にあるものは見えません。

「できる」が「当たり前」に上書きされるとき

この構造は、「知識の呪い」と呼ばれる認知バイアスと同じしくみを持っています。知識の呪いとは、一度何かを知ってしまうと「知らない状態」を想像することが難しくなる現象のことです。

この『知らない状態を想像できない』という呪いは、言葉の伝達だけでなく、自分自身のスキルの習熟過程にも当てはまります。すなわち、できることが当たり前になってしまうと、「できない状態」を想像する感覚が薄れていきます。かつてそれを学んだ記憶も、習熟が進むにつれて上書きされていきます。
そのため、「得意なことは?」と聞かれても、「これは普通のことだから」という判断が先に立ってしまいます。

一方で、他者の視点から見ると、その「普通のこと」は普通ではないかもしれません。

専門性の殻を脱いで、他者の視点に立つ

たとえば、「話を自然に引き出せる人」は、その振る舞いがどれほど希少かを、自分では知りません。資料を読んで要点をつかむのが早い人は、周囲からどれほど頼られているかに、案外無頓着なものです。

私自身、司書として働いていたこともあって、「調べる(情報検索)」ことは誰にでもできることだと思っていました。でも、実際は違いました。膨大な情報の海から信頼できるものを選び出し、相手に伝わる形で届ける。それは、意識して磨かなければ手に入らない、立派な「技術」だったのです。

学芸員の仕事をしていた時もそうでした。展示室で「来館者の視線がどう動くか」を考えるのは、私にとってごく自然なことでした。ですが振り返ってみれば、それは博物館学の学びや現場での試行錯誤を経て、ようやく私の一部になったものです。

工場での勤務中にも、同じような気づきがありました。手順書のわずかな記述の揺れや、工程の論理的な矛盾。それに気づく感覚が、周りの人とは少し違っていたのです。逆に、私には到底真似できないスピードで作業をこなす同僚を見て、「どうしてそんなことができるの?」と圧倒されることもありました。

才能の別名は「当たり前」

同じものを見ていても、見えている景色が違う。その事実に直面したとき、私が「普通」だと思い込んでいたものは、実は時間をかけて積み上げてきた、自分だけの「武器」だったのだと気付かされました。

「当たり前」というのは、才能の別名かもしれません。
それは、自分一人で鏡を覗き込んでもなかなか見つからないものです。他者という視点に映し出されて初めて、その形が浮かび上がってきます。

「自分には特に得意なことなんてない」と感じている人ほど、一度、周囲の反応に耳を澄ませてみてください。
あなたが何気なくこなしているその「当たり前」が、誰かにとっては喉から手が出るほど欲しい「特別」なのかもしれないのです。

『私』の外側に、答えはある


もしかしたら、自分のイライラが「得意」に繋がるという考え方には、まだ少し違和感があるかもしれません。ですが、その心の波立ちを「いけないもの」として蓋をしてしまうのは、少しもったいない気がします。
そこには、あなただけが持っている「解像度の高い世界」の情報が詰まっているからです。

次に誰かに対して「なんでこれができないの?」と感じたとき、一瞬だけ立ち止まって、自分にこう問いかけてみてください。

「自分には見えていて、相手には見えていないものは何だろう?」と。

自分の不満の裏側にある「基準」を、そっと照らしてみることで、これまで「欠点」や「窮屈さ」だと思っていたものが、自身の持つ「資質」へと姿を変え始めます。

日常の中で「これくらい普通だ」と口にしかけたときも同じです。
その「普通」は、本当に相手にとっても同じでしょうか?
あなたが呼吸するように当たり前に踏み出している一歩が、誰かにとっては「どうやってるの?」と驚くような魔法に見えているという、その非対称性に気づくこと。それこそが自分という輪郭を再発見する何よりの手がかりになります。

「得意」は、どこか遠くへ探しに行くものではありません。
それは、あなたがこれまでの日々の中で、無意識に、けれど実直に積み重ねてきた経験の中に、すでに静かに息づいています。

自分一人の鏡を覗き込んでも見つからなかった答えが、他者という鏡に自分を映してみることで、ふと鮮やかな形を持って現れる。「得意なこと」とは、懸命に探し出すものではなく、外の世界との関わりの中で、ふとした瞬間に「見つけてもらう」ものなのかもしれません。

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