SNSを見るたびに疲れるのは、なぜなのか──比べることをやめられない、脳の話

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SNSを開いたとき、最初は軽い気持ちだったはずなのに、閉じたあとなんとなく気分が落ちている。
そういう経験はないでしょうか。

誰かの旅行写真を見て、自分の週末が急に色褪せて見えた。
友人の昇進報告を読んで、おめでとうと思いながら、どこかで自分が置いていかれたような感覚を覚えた。
フォローしている人の充実した日常を眺めながら、自分の生活に何か足りないような気持ちになった。

疲れた、というより、「なんとなくすり減った」という方が近い感覚かもしれません。

そのあとで、「こんなことで気分が変わる自分はメンタルが弱いのか」と思ったり、「心が狭いのだろうか」「SNSなんて見なければいいのに」と自分を責めたりする。

でも、また開いてしまう。

この疲れの正体は、意志の弱さでも、感情的な未熟さでもありません。「比べる」という人間の根本的な認知のはたらきと、それを最大限に引き出すように設計されたプラットフォームが組み合わさったとき、必然的に起きることです。

この記事では、SNS疲れがなぜ起きるのかを、社会心理学・認知心理学の研究をもとに具体的に見ていきます。「比べることをやめられない」理由と、SNSという環境がそれをどう加速させるのか。その仕組みを知ることが、SNSとの付き合い方を変えるための出発点になります。

目次

SNS疲れの正体は「比べる本能」にある


人間が他者と自分を比較するのは、意地悪さでも嫉妬深さでもありません。社会の中で生きるために人間が進化の過程で獲得した、ごく基本的な認知のはたらきです。ただ、その本能がSNSという環境に置かれたとき、日常のどの場面よりも強く、速く、連続して刺激されます。まずはそういった現象の根拠となる理論から確認します。

フェスティンガーの社会的比較理論──比べることは本能である

アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)は1954年、「社会的比較理論(Social Comparison Theory)」を学術誌Human Relationsに発表しました。この理論の核心はシンプルです。人間には自分の意見や能力を評価したいという基本的な欲求があり、客観的な基準が得られないとき、他者と比べることでその評価を行う、というものです。

つまり「比べる」ことは性格の問題ではなく、自己評価のための認知的な手段です。他者との比較なしに、自分がどの位置にいるかを把握することはほぼ不可能に近い。社会的な文脈の中で生きる人間にとって、比較は思考の一部として組み込まれています。

フェスティンガーは、比較の方向性についても理論化しています。自分より優れた他者と比べる「上方比較(upward comparison)」と、自分より状況の厳しい他者と比べる「下方比較(downward comparison)」の2方向です。上方比較は「もっと頑張ろう」という動機になることもありますが、同時に劣等感や自己評価の低下をもたらしやすく、下方比較は一時的な安心感を生みますが、持続的な満足には結びつきにくいとされています。どちらの方向の比較も、感情的なコストを伴っています。

SNSは「上方比較」の装置として機能する

日常生活の中では、上方比較と下方比較はある程度バランスを保っています。友人と話せば、うまくいっている話もうまくいっていない話も聞こえてくる。職場では、自分より優れた人も、苦労している人もいる。比較の材料が多様であれば、自己評価も一定の水準を保てます。

ところが、SNSはこの均衡を崩します。

SNSに投稿されるのは、基本的に「見せたいもの」です。旅行、食事、昇進、記念日、達成。これらはいずれも、人生のポジティブな断面です。失業した翌日の朝の気持ちや、夜中に一人で気力が落ちた話は、あまり投稿されません。

つまりSNSのフィードは、他者の生活の中から選ばれたハイライトが並ぶ空間なのです。そこと自分の日常全体を比べれば、結果はほぼ決まっています。相手の「編集された好日」と、自分の「ありのままの日常」を比べているのですから、自分が劣って見えるのは、比較の前提条件が非対称であるため当然なのです。

研究もこれを裏付けています。2014年にPsychology of Popular Media Culture誌に発表されたヴォーゲル(Vogel)らの実験では、FacebookやInstagramを通じた他者との上方比較が自己評価の低下と関連することが確認されています。また、2012年にCyberpsychology, Behavior, and Social Networking誌に発表されたチョウとエッジ(Chou & Edge)の研究では、Facebookのフレンドにリアルでほとんど知らない相手が多い人ほど、「他者は自分より幸せで、充実した生活をしている」と感じやすいことが示されています。

フォロワーが増えるほど、自分の知らない「充実した生活」を送る他者の数も増えていく。これがSNSの構造的な特徴です。

見ているだけで、なぜ消耗するのか


SNSは「参加するもの」ではなく「眺めるもの」になったとき、感情的なコストが大きくなります。投稿したり、コメントしたり、誰かとやりとりしたりする使い方と、ただフィードをスクロールし続ける使い方では、心理的な影響が異なることが研究から示されています。
「見ているだけなのに疲れた」という感覚は、感情的なか弱さではなく、使い方のパターンが生む必然的な結果です。

受動的使用が感情を削る──Verduynらの実験

ベルギーのルーヴェン・カトリック大学(KU Leuven)のフィリップ・ヴェルデュイン(Philippe Verduyn)らは、2015年にJournal of Experimental Psychology: General誌でFacebook使用と感情的幸福感の関係を報告しました。

この研究では、Facebook使用を「能動的使用(投稿・メッセージ・コメントなど、他者とのやりとりを含む行動)」と「受動的使用(フィードを眺める、投稿を見るだけ、スクロールするだけ)」に分類し、それぞれが感情にどう影響するかを調査しています。

結果として、受動的なFacebook使用は時間の経過とともに感情的幸福感を低下させることが示されました。一方、能動的な使用はその影響が有意でない、あるいは影響が小さいことも確認されています。研究チームはこの違いについて、受動的使用が社会的比較を生じさせやすいのに対し、能動的使用は他者とのつながり感を生むためと考察しています。

「ただ眺めているだけ」の時間が、感情をじわじわと削っていくことが証明された研究とも言えます。

ハイライトリールという構造的な罠

「ハイライトリール(highlight reel)」という言葉があります。スポーツ中継などで流れる、名場面だけを集めたダイジェスト映像のことです。SNSのフィードは、ある意味でそれと同じ構造を持っています。

誰かの1週間の生活を想像してみてください。月曜は仕事が詰まっていて余裕がない、火曜は体調が優れない、水曜は頼まれた作業が思うように進まない、木曜はようやく少し回復してくる、金曜は久しぶりに友人と食事に行った。SNSに投稿されるのは、この1週間の中の「金曜の食事」の写真と、数行の楽しそうなコメントだけです。月曜から木曜の話は載りません。

この構造を知識として理解していても、スクロールしているときには機能しにくいというのが厄介なところです。次々と現れる他者のハイライトを連続して見続けると、脳はそれを「他者の日常の全体像」として処理しやすくなります。1枚の写真の背後に見えていない4日間があるという事実は、スクロールの速度の中では意識に上りにくいのです。

私が司書として情報の評価に関わってきた経験から言えば、情報の「見えている部分」と「見えていない部分」のバランスを意識することは、資料や文献を読む際の基本でもあります。どんな文献にも、著者が選んだ情報と、選ばなかった情報があります。SNSの投稿も同じです。フィードに並んでいるのは、投稿者が選んで公開した断面であって、その人の生活の総体ではありません。この視点を意識に置いておけるかどうかが、ハイライトリールに飲み込まれないための足がかりになります。

FOMO──「乗り遅れているかもしれない」という慢性不安


SNS疲れをもたらすもう一つの心理的なメカニズムが、FOMO(Fear of Missing Out)です。日本語に置き換えれば「取り残される恐怖」あるいは「見逃し不安」に近い概念です。他者が何か楽しいことや意味のあることを経験しているときに、自分はそこにいない、参加できていない、という漠然とした不安感のことを指します。

FOMOを心理学的に定義した研究者のひとりが、心理学者アンドリュー・プシビルスキー(Andrew Przybylski)らです。彼らは2013年にComputers in Human Behavior誌に発表した研究の中でFOMOを「他者がやりがいのある経験をしているかもしれないのに、自分はそこから外れているという広範な危惧感」と定義し、SNSの使用行動との関連を分析しました。

この研究では、FOMOの傾向が高い人ほど、SNSの利用頻度が高くなり、食事中・授業中・運転中といった本来SNSを見るべきでない状況でも確認行動をとりやすいことが示されています。FOMOはSNSの使用を増やす動機として機能し、SNSを多く使うことでさらにFOMOが刺激されるという、悪循環が生まれます。

FOMOが厄介なのは、確認しても解消されない点です。「他者が今何をしているか」を確認することで一時的に不安が下がっても、すぐにまた新しい投稿が現れ、「次は何があるだろう」という不安が生まれます。終わりのないスクロールの構造は、このFOMOの循環と非常に相性がよく、結果としてSNSを開くたびに疲弊が蓄積していきます。

また、FOMOは「今ここにあること」への満足感を損なう方向にはたらきます。目の前の食事、目の前の会話、目の前の景色に集中しているとき、「他者が今どこで何をしているか」は関係ありません。しかしFOMOが慢性化すると、SNSを開いていない状態そのものが「何かを見逃しているのでは」という不安と結びつき、現在の経験への集中を妨げます。そのため、SNSを閉じていても、SNS疲れは蓄積し続けるのです。

SNS疲れはプラットフォームの設計問題でもある


ここまで見てきたように、SNSを見るたびに疲れるのは、比べる本能、受動的な使用による感情の低下、FOMOという三つの心理的なメカニズムが重なった結果です。これらはいずれも、人間が本来持っている認知のはたらきを、SNSというプラットフォームが特定の方向に増幅させることで生じています。

これはあなたの感情コントロールが下手なせいでも、意志が弱いせいでもありません。

現代のSNSプラットフォームは、ユーザーが長時間滞在し、繰り返し訪問するように設計されています。フィードは無限にスクロールできる構造になっており、終わりがないため「もう少しだけ」という行動が続きやすくなります。通知は、承認や反応があるたびに届き、確認行動を促します。アルゴリズムは、感情的な反応を引き出しやすいコンテンツを優先的に表示します。(これらの設計の詳細については、以下の記事で述べていますので割愛します。)

「SNSを見て疲れた」という感覚は、プラットフォームがそのように機能するよう設計されているという事実と切り離して考えることはできません。

たとえば、私が学芸員として展示設計に関わってきた経験から言えば、展示物の前で来館者がどんな感情を持つかは、設計によって大きく左右することができます。動線、照明、キャプションの文体、展示の順序。これらを意図的に組み合わせることで、来館者の注意と感情を特定の方向に誘導することができるのです。SNSのフィード設計も、これと構造が似ています。あなたが感じる疲労や不安は、プラットフォームの設計が引き出した感情的な反応の一部と言えます。

疲れるのは当然の反応です。そしてその疲れは、あなたの心が弱いことを意味しません。

SNSとの距離の取り方


スマホを別室に置く、通知を切るといった環境の設計については、前のセクションに貼った記事と以下の記事に詳しく書いています。ここでは、SNS疲れに特有の感情的な側面、つまり「比べることによる消耗」にどう向き合うかに絞ります。環境を変えることと、SNSを見るときの心の構えを変えること。この二つは補い合う関係にあります。

「これはハイライトリールだ」と一度立ち止まる

受動的なスクロール中、他者の投稿を見て気分が落ちたと気づいたとき、「この人の生活の全体を自分は見ていない」という事実に立ち戻ることが有効です。

これは他者の幸せを喜べない自分を正当化する話ではなく、比較の前提条件を意識に上らせるという話です。見えているのはハイライトです。見えていない部分は、当然ながら見えていません。その非対称な情報を素材にした比較で自己評価が下がるのは、比較の条件がそもそも均等でないのです。

この認識は、SNSを見るたびに意識的に呼び起こすものではなく、習慣的な思考の前提として置いておくものです。つまり、常に頭の片隅に、「SNS上の情報はハイライトである」ということを置いておくということです。
すぐに比較の感情が消えるわけではありませんが、「自分がなぜこう感じているか」の構造を理解していることは、感情に飲み込まれるスピードを落とします。SNSを開いた後の気分の変化に気づいたとき、「意志が弱かったから」ではなく「ハイライトと日常を比べていたから」という説明が頭に浮かぶようになれば、それだけで受け取り方は大きく変わります。

受動的な「眺める」から、能動的な「選ぶ」に変える

ヴェルデュインらの研究が示したように、受動的な使用と能動的な使用では、感情への影響が異なります。この知見を実際の使い方に応用すると、「フィードを流し見する時間」を意識的に減らし、「特定の人の近況を確認しに行く」「気になっていた話題を調べる」という目的のある使い方に切り替えることが、対策の一つの方向性になります。

情報を「向こうから来るものを受け取り続ける状態」から、「必要なものを自分で取りに行く状態」へ。司書の情報検索は、常に目的ありきで始まります。「何を知りたいか」が先にあって、情報収集が始まる。この順序をSNSの使い方にも持ち込むことで、フィードに流される時間の割合が変わります。

具体的には、SNSを開く前に「今、何か確認したいことがあるか」を一秒だけ考えてみる。目的がないなら、その状態では開かない。目的があるなら、それを確認したら閉じる。
単純ですが、習慣として繰り返すことで、受動的なスクロール時間は変わっていきます。

SNSの外に「自分の基準」を置く

社会的比較が消耗につながる大きな理由のひとつは、他者の状況が自己評価の主な基準になっているときです。「あの人が旅行に行っているから、自分もそうすべきだ」「あの人がこれを持っているから、自分はまだ足りない」という形の評価は、他者の状況が変わるたびに自己評価が揺れる構造を生みます。

SNSの外に、自分自身の基準を持つことが、この揺れを小さくします。「自分は今何を大切にしているか」「今週、自分がよかったと思えることは何か」という評価の軸を、他者との比較ではなく、自分の内側に持ち続けること。これはSNSを見ないことよりも、むしろSNSを見ながらでも有効な構えです。

比べることは本能なので、完全にやめることはできません。ただ、比較の対象を「昨日の自分」や「自分が大切にしていること」に向けることは、意識的に選べることです。他者のハイライトに揺さぶられるたびに、比較の矢印を少しだけ内側に向け直す。その繰り返しが積み重なることで、SNSとの感情的な距離は変わっていきます。

おわりに

「SNSを見て疲れた」という感覚に、長い間「自分がおかしいのか」「気にしすぎなのか」と思ってきた人は少なくないと思います。でも、その疲れには構造的な理由がありました。

比べることをやめられないのは、人間として当然のことです。問題はやめられないことではなく、SNSという環境がその本能を特定の方向に、しかも非対称な条件のもとで刺激し続けることにあります。他者のハイライトと自分の日常全体を比べれば、結果はほぼ決まっています。受動的にスクロールし続ければ、感情は少しずつ削られます。FOMOが慢性化すれば、SNSを閉じていても安心できない状態が続きます。

SNSを完全にやめる必要はありません。ただ、「なぜ疲れているか」を知った上でSNSを開くことは、知らないまま開くこととは少し違います。

他者の投稿を見て気分が落ちたとき、「これはハイライトだ」と思い出せるかどうか。
フィードを流し見するかわりに、目的を持って開けるかどうか。
比較の基準を少しだけ自分の内側に向けられるかどうか。

SNSとの距離をどう取るか。
その答えは、あなた自身の中にあります。

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