モノを大切にするとはどういうことか

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ふと家の中を見回すと、買ったまま一度も袖を通していない洋服や、箱から出さずにしまってある食器、気に入って手に取ったはずなのに、封を切らずにたまに眺めるだけになっているグッズなどに気づくことがあります。
使いやすそうだからと買った文房具、読みたいなと思って買った本、時間ができたときにやろうと思って買ったゲームなど——。
そんなモノたちに心当たりはありませんか?

私たちはそういったモノに対して、「大切にしている」と感じることもあれば、「使えていなくて申し訳ない」と感じることもあります。同じように”手元には置いている”のに、感覚は人によって様々です。

そもそも「モノを大切にする」とは、どういう行為を指す言葉なのでしょうか。

汚さないこと。
長く持つこと。
それとも、別の何かなのか。

今回は心理学や行動経済学の知見を借りながら、その意味を考えてみたいと思います。

目次

「大切にする」には、いくつもの形がある


「モノを大切にする」と聞いたとき、思い浮かべる場面は人によって違うと思います。

汚さないように丁寧に扱うこと、飾って毎日眺めること、毎日使い込んで馴染ませていくこと、壊れても修理して長く使い続けること、あるいはプレミアが付くまで未開封のまま保管しておくこと。

これらはどれも、その人にとっての「大切にする」という行為です。
タンスの肥やしとして眠らせている人にも、毎日使い込んでいる人にも、それぞれの大切さがあります。どの形が正解で、どの形が間違いということはありません。

ただ、ここで一つ、考えてみたいことがあります。
それは、「自分がそのモノの何に惹かれて手に入れたのか」という、買ったときの欲求の性質です。

人がモノを買うとき、そこには必ずその人なりの「動機となる何か」があります。 デザインがたまらなく好きで手元に置きたかった、実際に使って生活を便利にしたかった、あるいは、周りの人に『それ、いいね』と言われる姿を想像した——。衝動買いであれ、じっくり考えた買い物であれ、私たちはそのモノに対して、何かしらの「ときめき」や「期待」を抱いてお金を払います。

例えば、同じバッグを買った二人がいたとします。 片方は「このバッグを毎日肩から提げて街を歩いたら、きっと気分がいいだろうな」という、使う未来に惹かれた。もう片方は「これは世界に数個しかない限定品だから、資産として持っておこう」という、希少価値に惹かれた。

この二人にとっての「大切にする」が、まったく違う形を取るのは当然です。 前者にとっては毎日ボロボロになるまで連れ歩くことが、後者にとっては傷一つつけずに未開封のまま保管することが、それぞれが買ったときに抱いた「欲しい」という欲求を、最も裏切らない扱い方だからです。

また、私たちがモノに対して抱く「ときめき」や「期待」の重さは、他人が外側から測れるものではありません。そのため、モノの価値というものは単に市場価格や希少性だけで決まるものでもありません。
ただの置物に3万円は高すぎると感じる人もいれば、納得して買う人もいますし、植物に5万円を出すと聞いて驚く人もいれば、迷わず買う人もいます。

私はと言いますと、実際に置物に3万円、植物に5万円を出した経験があり、まさしく、興味のない人からすれば理解しがたい金額に映っているかもしれません。しかしそこには、他人の目差しや市場の評価とは無関係な、自分だけの「意味」が確かにありました。

だからこそ、買うときに抱いた「ときめき」や「期待」——つまり自分の『動機』に対して、いまの「モノの扱い方」がどれだけ一致しているかが、自分にとっての「モノを大切にする」というかたちを大きく左右していくのではないかと思うのです。

使うこと・飾ることが、モノの価値を引き出す


未開封の箱に入ったまま戸棚やクローゼットの奥にしまわれているモノを、ふと取り出してみたとき、私たちは少しの後ろめたさのようなものを感じることがあります。
そして、この感覚は裏を返せば、手元に置いたり、使ったり、飾ったりすることに、私たちが何かしらの意味を感じているということでもあるように思います。では、その「意味」とは具体的にはどういうものなのでしょうか。

心理学の領域では、モノを手元に置く、使う、飾るという行為が持つ効果について、一定の知見が示されています。ここでは二つの研究から、その仕組みを見ていきたいと思います。

繰り返し目にすると、好意度は自然に高まる

社会心理学者のロバート・ザイアンス(当時ミシガン大学)は、1968年に「Attitudinal Effects of Mere Exposure(単純接触の態度効果)」という論文を発表しました。この研究で示されたのは、人が同じ対象に繰り返し接触すると、その対象に対する好意度が自然に高まる、という現象です。後に「単純接触効果(mere exposure effect)」と呼ばれるようになりました。

ザイアンスの実験は様々な対象で行われました。意味のない図形、知らない言語の文字、見たことのない顔写真など。最初は中立的な印象だったものでも、繰り返し見ているうちに、被験者はそれらをより好ましく感じるようになっていきました。重要なのは、被験者が「これを好きになろう」と意識していたわけではないことです。ただ目にする回数が増えるだけで、好意度が自然と上がっていったのです。

この現象は人類の進化的な観点からも説明されています。見慣れないものは未知の脅威である可能性があるため、警戒するのに対し、何度か接触しても危険がなかったものは安全と判断され、好意の対象に変わっていきます。脳が持つこの仕組みは、生存のために備わったものと考えられています。

つまり、モノを手元に置くということは、この単純接触効果が日常的に発動する条件を整える行為とも言えます。
本棚に飾った置物、机に置いたお気に入りの文房具、玄関に並べた靴。それらを日々目にすることで、その対象に対する愛着は時間をかけて積み重なっていきます。

逆に、箱に入れたまましまい込まれているモノは、この接触の回数が増えません。買ったときの一瞬の高揚感はあっても、その後の関係性が育たないまま時間が経ってしまいます。

「気に入って買ったのに、なぜか愛着が湧かない」と感じることがあるとしたら、その対象との接触機会が不足している可能性があるのかもしれません。

好きなモノに囲まれた環境が、暮らしの体感を変える

環境心理学や住環境研究の領域では、自分が選んだモノで構成された空間が心理的に与える影響についての知見が蓄積されています。

人間は、自分の身を置く環境から無意識のうちに影響を受けています。視覚的に目に入るもの、手で触れるもの、生活の中で繰り返し使うもの。これらは私たちの気分や認知に細かく作用しています。心地よいと感じる空間に身を置いているときと、雑然とした空間にいるときとでは、リラックス度や集中力に差が出ることが知られています。

そのため、自分が好きで選んだモノを身の回りに配置することは、自分の感覚に合った環境を自分で設計する行為です。気に入った絵を壁に掛ければ、それを目にするたびに小さな満足感が生まれます。好きな器でお茶やコーヒーを飲めば、その一杯の時間に少しの豊かさが加わります。これらの日常の中で繰り返し起きる小さな積み重ねは、暮らしの体感を確かに変えていきます。

学芸員として展示の仕事に関わっていた頃に思ったのですが、展示物というのは「見られてこそ」存在意義を持つような気がするんですね。収蔵庫に大切に保管されている資料は、保存状態という意味では理想的ですし、学術的な研究史料としては非常に優秀なんだと思います。ですが、誰の目にも触れず、誰の考えを刺激することもなく眠っています。展示室に並べられた瞬間に、その資料は人と関係を持ち始め、本来の役割を果たし始めるように感じていました。

家にあるモノも、これと似たところがあります。
買って手元に置いた時点では、まだそのモノとは関係性を結んでいません。使われたり、飾られたり、目にされたりすることで、暮らしの一部としての役割を持ち始めます。

そしてもう一つ加えておくと、未開封のまま劣化するという物理的な事実があります。博物館の資料はしっかりと、最適な保管状態で維持されますが、私たちが買ってきたモノは、そういうわけにもいきません。
化粧品も置物も文房具も、本も革製品も、時間そのものによって大小の差はあれど影響を受けます。

たとえば、時間が経った化粧品なんかはよく酸化した油の匂いだったり、基材臭といった独特の化学製品のような香りが出てきたりします。私が化粧品メーカーで働いていた頃に、割と多かったのが「匂い」に関するクレームなのですが、ヒアリングをしていくと、プレゼントとして貰ったけど「もったいなくて使えなかった」といった背景があったりして、使用までに年月が経過していることが多かったんです。

このように、未開封でも品質は時間とともに必ず変化していきます。包装で守られているように見えても、内容物の成分は化学的・物理的に少しずつ変わっていきます。樹脂なんかが使われているモノは、加水分解といって、空気中の水分と反応してベタつきになっている場合もあります。
食器などは綺麗なままに見えますが、それでも未開封なのに微細な汚れが付着していたり、なんてこともあります。

すなわち、「いつか使おう」のいつかは、モノの側からすると、刻一刻と質が落ちていく時間でもあるということです。

使ったり飾ったりできないのはなぜか


ここまでで、モノを手元に置き、使い、飾ることに心理的な意味があることを見てきました。ただ、頭では理解できても、実際にはそうできないこともあります。買ったまましまい込んでしまう、飾ろうと思いつつ箱から出さない、という状態に心当たりがある方は少なくないはずです。

なぜそうなるのか——。
そこには、いくつかの心理的な仕組みが絡んでいることがわかっています。ここでは三つの構造を順に見ていきます。

「もったいない」のなかには、二つの層がある

さきほど少し出てきましたが、化粧品が「もったいなくて使えなかった」ために、匂いが悪くなってしまっていたという状態。この化粧品の例は、あくまでも一例に過ぎませんが、まず、「もったいない」という感覚について見ていきます。

日本語の「もったいない」は便利な言葉ですが、心理学的に見ると、その中には少なくとも二つの異なる層があります。

損失回避という認知バイアス

一つは、損失回避という認知バイアスに基づくものです。これは行動経済学者のダニエル・カーネマンと心理学者のエイモス・トヴェルスキーが1979年に発表した「プロスペクト理論」で示された概念で、人は何かを得る喜びよりも、同じものを失う痛みのほうを大きく感じるという傾向です。後にリチャード・セイラーらがこの理論を発展させ、「保有効果(endowment effect)」という現象を見出しました。すでに自分が所有しているモノを手放したり、損なったりすることへの抵抗が、客観的な価値以上に強く働くという仕組みです。

これが日常レベルで現れるのが、「使ったら傷がつくかもしれない、汚れるかもしれない、だから使わずに取っておく」という感覚です。いまの綺麗な状態を失うことへの恐れが、使うという行為そのものに対して心理的なブレーキをかけます。論理的に考えれば、使わないまま劣化する未来と、使って摩耗する未来とで、どちらが価値の損失かは状況によって変わるはずです。それでも、いま手の中にある「未使用の状態」を維持することのほうに、強い引力が働いてしまいます。

特別視のスパイラル

もう一つの層は、より特殊な現象です。マーケティング研究者のジャクリーン・リフキン(ミズーリ大学カンザスシティ校)とジョナサン・バーガー(ペンシルベニア大学ウォートン校)が2021年に発表した研究で、「specialness spirals」と名付けられた現象です。日本語で訳すと「特別さのスパイラル」あるいは「特別視のスパイラル」と表現するのが良いでしょうか。
学術誌『Journal of the Association for Consumer Research』に「How Nonconsumption Can Turn Ordinary Items into Perceived Treasures(使わないことが、いかに普通のモノを特別な宝物に変えるか)」というタイトルで掲載されました。

リフキンとバーガーが6つの実験で示したのは、次のような仕組みです。
何かを買ったとき、ある機会に「これを使うのはまだ早い、もっとふさわしい場面で使おう」と取っておく判断をすると、その判断そのものが「これは特別なモノだ」という感覚を後付けで強化していきます。そして、その感覚が強化されると、次の機会には「やはりこれはまだ早い」とさらに使いにくくなります。この循環が雪だるま式に進行し、モノはどんどん特別視されて、結果的に永遠に使われないまま手元に残ることになります。

リフキン自身が論文の中で挙げているのは、彼女自身の経験です。
あるとき、衣料品店で気に入ったブラウスを買いました。買ったその日、着てみようかと考えましたが、なんとなく着ませんでした。週末になって、また着ようかと考えましたが、その場には少しふさわしくない気がしてやめました。一週間後、デートのときに着ようと考えましたが、それも特別な機会には足りないと感じました。気がつくと、そのブラウスは一度も袖を通されないまま、クローゼットの中で「特別な一着」になっていたといいます。

このスパイラルが厄介なのは、本人にはそれが「大切にしている」と感じられていることです。実際には使わない判断を重ねているだけなのに、感覚としては「ふさわしい場面のために取っておいている」という主観になります。
気がついたときには、もはやどんな場面も「ふさわしさが足りない」と感じられるところまで、特別視のレベルが上がってしまっています。

なお、ラストエリクサー症候群というものと一見似ているように見えますが、こちらは「既に貴重なモノへの温存」であるのに対し、specialness spiralsは「普通のモノが特別化していくプロセス」となり、焦点が異なっています。

このように、損失回避としての「もったいない」と、specialness spiralとしての「もったいない」。
日本語ではひとつの言葉で括られていますが、内側では別々の力学が動いているということです。

プロスペクト理論については、以下の記事でも触れていますので、ぜひ読んでみてください。

「自分にはまだふさわしくない」と感じてしまう

続いて、モノと自分のあいだに感じる距離の問題です。

マーケティング研究者のM・ジョセフ・サージ(バージニア工科大学)は、1982年から「自己一致理論(self-congruity theory)」という考え方を提唱しています。人が消費行動を取るとき、そのモノが自分の自己イメージとどれくらい一致しているかが、その人の態度や行動に大きく影響する、という理論です。自己イメージには「現在の自分(actual self)」と「理想の自分(ideal self)」があり、モノとの関係性はこの両方に対して結ばれていきます。

この理論が示唆するのは、モノを所有することと、そのモノを実際に使うことのあいだに、一つの段差があるということです。所有しているだけなら、それは「いつかの自分のための準備」として置いておけます。しかし実際に使う段階に入ると、そのモノを使っている自分の姿が現実のものとなります。

そこで「いまの自分には、まだこのものを使いこなす資格がない」という感覚が生じることがあります。

例えば、上質な革のバッグを買ったものの「もっとちゃんとしたコーディネートができるようになってから持とう」と感じたり、お気に入りの万年筆を手に入れたものの「きれいな字が書けるようになってから日常使いしよう」と感じたり。あるいは、良い器を揃えたものの「もっと丁寧な暮らしができるようになってから使おう」と感じたりする。

そしてもう一つ、サージの理論が示唆するのは、現在の自分と理想の自分のあいだのギャップは、放っておくと縮まりにくいということです。「ふさわしい自分になってから使う」と決めても、その「ふさわしい自分」は具体的な到達点が定義されていないため、いつまで経っても到達できません。結果として、「もう少し」が永遠に続き、モノは使われないまま時間だけが過ぎていきます。

ただ、実はこれを逆方向から考えると、一つの抜け道があります。
サージの理論では、モノを実際に使うこと自体が、自己イメージにも影響を与えるとされています。上質なバッグを使い始めた人は、そのバッグを持つ自分に少しずつ慣れ、自己イメージのほうがモノに近づいていく、ということです。モノを使うことが、「ふさわしい自分」への距離を縮める一つの方法でもあるわけです。
この視点は、引き寄せやアファメーションの文脈でもよく語られますが、サージの理論としてしっかりと説明がつく現象だったのです。

恥ずかしさが、好きを萎縮させる

最後に、好きを表に出すことへの抵抗です。
これは、「自分にはまだふさわしくない」とは違う層の感覚です。先ほどの「まだふさわしくない」という感覚は、あくまでも「自分から見た自分」を起点にしています。誰にも見られなくても、自分自身がそのモノに釣り合っていないと感じてしまう、という構造です。それに対して、こちらは「他人から見た自分」を起点にしています。

自分が気に入って買ったモノを身に着けたり、家に飾ったりするとき、人によっては「他人にどう見られるか」が気になることがあります。趣味が偏っていると思われないか、子どもっぽいと感じられないか、そんなものに価値を見出していると軽く見られないか。こうした想像が先回りして、せっかく手に入れたモノを表に出すことを躊躇わせます。

ここで作用しているのは、社会的承認への欲求と、自己表現の抑制という心理です。人間には集団のなかで受け入れられたいという基本的な欲求があり、その欲求は時に、自分の好みを抑制する方向に働きます。特に、自分の好みが多数派から外れていると感じるとき、その抑制は強くなります。

「価値観は人それぞれだ」「多様性は尊重されるべきだ」というメッセージは、現代社会では広く共有されています。にもかかわらず、自分が少数派の好みを持っていると気づいた瞬間に、私たちはしばしば縮こまってしまいます。価値観の相違を頭では認めているのに、自分自身がその相違の側に立つことには抵抗を覚えてしまう。
この非対称性が、好きを表に出すことをさらに難しくしています。

「身に着けたい」「飾りたい」と思って買ったはずなのに、扱いの段階では恥ずかしいから「隠す」という方向に進んでしまっている。そのために、そこには買ったときの動機との不一致が生じてしまっています。

焦点を、自分の動機に戻してみる


ここまで、モノを使う・飾ることが心理的に持つ意味と、それを妨げる三つの構造を見てきました。
改めて三つの構造を振り返ってみると、共通している点があることに気がつきます。それは、どれも「焦点」が自分の動機から外れている、という点です。

「もったいない」と感じるとき、焦点はモノの状態に向いています。傷つけたくない、未開封のまま保ちたい、価値を損ねたくないといった、モノを守ることに意識が集中して、そもそも自分がなぜそれを手に取ったのかは、意識から遠ざかっています。

「まだ自分にはふさわしくない」と感じるとき、焦点はまだ存在しない未来の自分に向いています。いまここにいる自分ではなく、いつか到達するかもしれない理想の自分。その実体のない像に意識が引かれることで、いまの自分とモノとのあいだに関係が結ばれにくくなっていきます。

「他人にどう見られるか」を気にするとき、焦点は外側の視線に向いています。実際には誰も自分のことをそこまで見てはいないにもかかわらず、想像上の他者の目線が先回りして、自分の好きを表に出すことを縮こまらせていきます。

つまり三つとも、焦点が「自分以外のなにか」に置かれているわけです。言い方を変えると、私たちは無意識のうちに、自分の動機よりも他の何かを優先してしまっていることになります。モノの状態、まだ存在しない未来の自分、他人からの視線。
これらに意識を譲り渡している時間が積み重なるほどに、買ったときの動機は遠ざかっていきます。
今回考えてきたのは、その焦点を、自分の内側から出てきた動機のほうに戻してみる、という話でもあります。

隣の芝が青く見えるとき、あえて自分の足元に意識を戻してみる。すると、そこには自分が選んだモノたちがあります。誰かに勧められたからでも、流行だからでもなく、自分が「いい」と感じて手に入れたモノたちです。その動機に呼応する扱い方をすることは、モノの価値を引き出すだけでなく、自分自身を豊かにする行為でもあります。

「モノを大切にする」という言葉には、いろいろな解釈があっていいのだと思います。ただ、もし自分が「使ってみたい」「飾ってみたい」「身近に置きたい」という動機でそれを手に入れたのなら、その動機に呼応する扱い方をすることが、自分にとっての大切さに最も近いところにあるのではないでしょうか。

動機に呼応するという、小さな選択

クローゼットの奥にしまったままのシャツがあるなら、明日それを着てみてもいいのかもしれません。箱から出していないお皿があるなら、今夜の食事でそれを使ってみてもいいのかもしれません。気に入って買ったのに飾れていない置物があるなら、目に入る場所に置いてみてもいいのかもしれません。

そこで何かがすぐに大きく変わるわけではないと思います。シャツを着たからといって、その日が特別な日になるわけではありません。お皿を使ったからといって、料理が劇的においしくなるわけでもありません。それでも、買ったときの自分の動機と、いまの自分の扱い方が一致していることには、確かな感触があります。

「これはやっぱり良いモノだった。」
「素敵な買い物ができた。」
「なんか思っていたのと違った。」
「眺めて癒される。」
「好きだなぁ。」

使ってみて、飾ってみて自然と出てくる言葉がまさしくその感触の一つです。

モノは時間とともに変化します。
使えば摩耗し、使わなくても劣化します。永遠に新品のままでいられるモノはありません。
だからこそ、自分が出会ったタイミングで、自分の動機に呼応する形で関わっていくことに、意味があるのではないかと感じます。

手元にあるそのモノは、誰かの暮らしのために作られたモノです。
そして、それを買ったときのあなたの動機は、あなた自身のものです。
その二つが出会った瞬間に生まれた可能性を、恥ずかしさやもったいなさやふさわしくなさで先送りにしてしまうのは、何かを取りこぼしているような気がします。

——「大切にする」とは、自分の動機に呼応する扱い方をすることなのではないか。

そう考えてみると、いままで手をつけられずに部屋の片隅にしまわれていたモノたちが、輝いて見えてくるかもしれません。

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