「最近、物忘れが増えた気がする」
「集中力が続かない」
「以前はもっとスパッと物事を考えられた気がするのに⋯」
──そんなふうに感じたことはありませんか?
私たちは、こうした変化を「歳のせい」と片づけてしまいがちです。ですが、実は脳には、刺激を受けることで構造そのものを変えていく仕組みが備わっています。
「脳の筋トレ」という言葉はもともと比喩として広まりましたが、神経科学の研究が蓄積されるにつれて、この表現は思いのほか実態に近いことが分かってきました。
この記事では、脳が変化するメカニズムを神経可塑性(しんけいかそせい)とBDNFという観点から整理したうえで、どのような働きかけが脳に届くのかを、現時点で根拠の確かな研究をもとにお伝えします。
「脳を鍛える」という言葉の意味を、少し丁寧に見直してみましょう。

「脳の筋トレ」という比喩が意味すること

筋肉は使うほど発達し、使わなければ衰えます。
脳もこれと同じ性質を持っているのだろうか──そんな問いに、神経科学は「おおむねそうだ」という答えを返してきました。ただし、筋肉と脳では変化のメカニズムが異なります。
比喩としての「筋トレ」が実態に近いと言える理由と、脳ならではの変化の仕組みを順に見ていきます。
神経可塑性──脳は何歳からでも変化する
かつて脳は、成人した時点でほぼ完成した固定的な器官と考えられていました。神経細胞(ニューロン)は生まれた後に増えることはなく、失われた機能は戻らない──そう信じられていた時代が長く続きました。
この考え方を大きく変えたのが「神経可塑性(neuroplasticity)」という概念です。神経可塑性とは、脳が経験や学習、環境の変化に応じてその構造と機能を変える能力のことを指します。新しい神経回路が形成されたり、使われなくなった回路が弱まったりすることで、脳は日々少しずつ変化し続けています。
この性質は、子どもや若者だけに限られたものではありません。成人したあとも、高齢になっても、適切な刺激があれば脳は変化し続けます。2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞したエリック・カンデルの研究は、学習と記憶が神経細胞どうしの接続(シナプス)の変化によって生じることを示しており、神経可塑性の分子的な基盤を明らかにしました。
「変化できる」ということは、「鍛えられる」とも言い換えられます。その意味で、「脳の筋トレ」という表現は単なる比喩以上のものを含んでいます。
神経成長因子BDNFとは何か
神経可塑性を語るうえで外せない物質が、BDNF(Brain-Derived Neurotrophic Factor:脳由来神経栄養因子)です。BDNFは脳内で産生されるタンパク質の一種で、ニューロンの生存・成長・新しいシナプス結合の形成を促す働きを持っています。
BDNFはしばしば「脳の肥料」とも呼ばれますが、機能として見れば「筋トレ後に筋肉を修復・増強するタンパク質」に近い役割を担っています。BDNFが十分に産生されている状態は、脳が新しい情報を学習しやすく、記憶を定着させやすい状態でもあります。
BDNFの産生量は年齢とともに緩やかに低下する傾向がありますが、特定の行動によってこの低下を緩和したり、産生を促したりできることが分かっています。
その最も根拠の確かな方法が、有酸素運動です。
有酸素運動が脳にもたらす変化

「身体を動かすと頭が働く」という感覚を持っている人は多いと思います。散歩から帰ったら考えがまとまった、ランニング中にいいアイデアが浮かんだ──これは気のせいでも気分転換の効果でもなく、脳の内部で実際に起きている変化を反映しています。
有酸素運動とBDNFの関係は、現在の神経科学において最も信頼性の高い知見のひとつです。2011年にピッツバーグ大学のカーク・エリクソンらが発表した研究(Proceedings of the National Academy of Sciences掲載)では、週3回のウォーキングを1年間続けた高齢者グループで、記憶に深く関わる海馬の容積が約2%増加したことが確認されました。一方、ストレッチのみを行った対照グループでは海馬の容積が減少していました。
この変化のメカニズムに関与しているのがBDNFです。有酸素運動によって血中のBDNFレベルが上昇し、それが海馬における神経新生(新しい神経細胞の生成)と神経可塑性を促すと考えられています。
また、有酸素運動は脳全体への血流を改善します。血流が増えることで酸素と栄養素の供給が向上し、老廃物の排出が促進されます。これは集中力や思考の明晰さに直接影響する変化です。
さらに、運動はストレスホルモンであるコルチゾールの過剰分泌を抑える効果も持っており、慢性的なストレスが海馬に与えるダメージを和らげる可能性があります。
「どのくらいの運動が必要か」という点については、エリクソンらの研究では週150分程度の中強度の有酸素運動が基準とされていますが、まずは1日10〜20分の散歩から始めることでも、脳への血流改善という効果は得られます。
強度や量よりも、継続できる形を見つけることの方が長期的には重要です。

知的活動と脳の関係──認知予備力という考え方

有酸素運動が脳への「材料供給」を担うとすれば、知的活動は脳の「回路を使い込む」働きを担います。ただし、知的活動がBDNFを直接増加させるかどうかについては、有酸素運動ほど明確な根拠はまだ多くありません。
それでも、知的活動が脳の健康に貢献するという考え方には、「認知予備力」という重要な概念が関わっています。
認知予備力とは何か
認知予備力(Cognitive Reserve)とは、脳にダメージが生じても認知機能の低下を遅らせたり、補ったりする能力のことです。この概念は、アルツハイマー病の病理変化が見られていながらも、生前にほとんど認知症の症状が現れなかった人々の脳が多く報告されたことで注目されました。
なぜそのようなことが起きるのか。有力な仮説のひとつは、教育歴が長かったり、精神的に活発な生活を送ってきた人ほど、脳の神経回路がより多様かつ豊富に形成されており、一部の回路が損傷されても代替の経路を使えるため、症状として現れにくいというものです。
コロンビア大学のヤコフ・スターン(Yaakov Stern)らはこの仮説を長期にわたって検証し、認知予備力の高い人ほど加齢による認知機能低下が緩やかであることを示す研究を複数発表しています。知的活動は「脳を直接鍛える」というよりも、「将来に備えた回路の多様性を確保する」という働きをしている、と考えるほうが現時点では正確です。
新しいことを学ぶことが脳に与える刺激
認知予備力の観点からすると、「新しいことを学ぶ」という行為はとりわけ意味を持ちます。すでに慣れた作業を繰り返すだけでは、使われる神経回路はほぼ固定されます。一方、新しい言語を学ぶ、楽器を始める、慣れない分野の文章を読む、といった活動は、脳に新しいパターンの情報処理を要求します。この「慣れない刺激」こそが、神経回路の多様性を広げる機会になります。
二言語話者(バイリンガル)と一言語話者を比較した研究では、バイリンガルの人々において認知症の発症が遅れる傾向が報告されています(エレン・ビアリストックらの研究、2007年)。常に複数の言語体系を切り替えながら使用することで、脳が継続的に高負荷の情報処理を行っている結果と考えられています。ただしこの分野の研究は現在も議論が続いており、バイリンガリズムの効果の大きさや条件については慎重に見ていく必要があります。
日常に「少しだけ負荷のかかる知的活動」を取り入れることが、長期的な脳の健康に寄与する可能性があります。それは高度な勉強である必要はなく、慣れない文章を読む、いつもと違う視点で考えてみる、自分の考えを言葉にしてみる、といった程度のことからで十分です。

睡眠は、脳にとっての「整備の時間」である

脳を鍛えることを考えるとき、運動や知的活動ばかりに目が向きがちですが、脳の変化の大部分は「眠っている間」に起きています。この観点を欠いた状態で「脳の筋トレ」を語ることは、筋トレの効果を最大化するための休息を無視するのと同じことです。
記憶の定着には、睡眠が不可欠です。日中に経験したことや学んだことは、睡眠中に海馬から大脳皮質へ転送され、長期記憶として保存されます。この過程は主にノンレム睡眠(深い眠り)の段階で行われることが分かっています。つまり、日中に行った学習や体験を「定着させる」ための最後の工程が、夜の睡眠です。
また近年の研究では、睡眠中に脳内の老廃物が排出されることが明らかになってきました。2013年にロチェスター大学のマイケン・ネーデルガード(Maiken Nedergaard)らがScience誌に発表した研究では、脳には「グリンファティック系」と呼ばれる老廃物排出システムが存在し、このシステムが睡眠中に最も活発に機能することが示されました。アルツハイマー病と関連するアミロイドβというタンパク質の蓄積を、十分な睡眠が抑制できる可能性があると示唆されています。
「よく眠れた日は頭が回る」という感覚は、まさにこの仕組みを反映しています。何かを覚えたい日、集中したい翌日には、意識して睡眠の質を確保することが、他のどんな活動よりも効果的かもしれません。

「続ける」ことと、自分に合った形を見つけること

神経可塑性は、刺激が継続的に与えられることで維持・強化されるという性質を持っています。つまり、効果の高い活動を一度やって終わりにするよりも、効果が中程度でも継続できる活動を日常に組み込む方が、長期的には脳にとって有益です。これは「脳の筋トレ」という比喩が最もよく当てはまる部分かもしれません。
習慣として根付かせるために
筋トレを習慣にするとき、最初から高重量・高頻度で始めると長続きしません。脳への刺激も同様です。「これなら続けられる」という形から始めることが、長期的には重要になります。
有効な方法のひとつは、すでに習慣にしている行動に「少しだけ負荷をかける」という発想です。毎朝コーヒーを飲む時間に、読んだことのない分野の短い記事を読む。通勤中に、いつもと違う経路を歩いてみる。夜、眠る前にその日考えたことを簡単に書き出してみる。こうした「ついでにできること」の積み重ねが、認知予備力の維持に寄与する可能性があります。
特別なアプリやツールを用意する必要はありません。大切なのは、脳に「慣れていない刺激」を少しずつ与え続けることです。

情報を扱う仕事の中で気づいたこと
私自身、司書として情報管理や文献検索に関わってきた経験の中で、「日常的に調べることを習慣にしている人」と「必要なときだけ調べる人」では、新しい情報への向き合い方が少し違うという印象を持ってきました。慣れた手順や定型業務だけをこなしていると、何か新しいものに出会ったときに、見落としてしまったり、思考が止まってしまったりするような──そんな場面を見てきたことがあります。
これは感覚的な話ではありますが、スマホやAIが普及した今だからこそ、認知予備力や神経可塑性の考え方と重なるような気がします。「知らないことに向き合う」機会を日常の中に持ち続けることは、脳の回路の柔軟性を保つことにつながっているのかもしれません。

脳を鍛えるということの、もう少し深いところ

「脳の筋トレ」という言葉は、一時期ブームのように扱われ、特定のゲームやアプリを指す言葉として広まりました。しかし神経科学が示しているのは、もう少し地味で、しかし本質的なことです。
脳は、使われる回路を保ち、使われない回路を手放します。外からの刺激に応じてBDNFを産生し、ニューロンの接続を変え、眠っている間に整備を行います。この一連の営みは、特別なトレーニングをしている人にだけ起きるのではなく、すべての人の脳で、今日も静かに続いています。
だとすれば、問うべきことは「どのアプリが最も効果的か」ではなく、「自分はどんな刺激を、どんな形で、続けられるか」ではないでしょうか。
歳を重ねることで脳が変化するのは確かです。しかしその変化は、「衰えていく」という一方向ではありません。刺激に応じて変わろうとする性質は、何歳になっても脳が持ち続けています。
「鍛える」というよりも、「脳が変わろうとする性質を、日常の中で丁寧に使い続ける」という感覚の方が、長く続けるには向いているのかもしれません。
今日、少しだけ慣れないことに触れてみる。それだけで、脳はちゃんと応答しています。


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