「アートはよくわからない」と感じたことがある方は、少なくないのではないでしょうか。
何を見ればいいのかわからない。どう感じればいいのかわからない。解説を読んでも、作者が何を伝えようとしているのかがつかめない。そういう感覚のまま美術館を出て、「自分にはアートは向いていないのかもしれない」という結論を抱えて帰ったことがある方もいるかもしれません。
私自身、学芸員として展示の現場に関わりながら、「見る側」としての美術館が長い間うまくわかりませんでした。この作品は何を描いたものなのか、この表現は何を意図しているのか、そういう疑問が次から次へと湧いてきて、目の前にあるものをそのまま受け取ることができませんでした。その結果、いつも途中で集中力が途切れて、出口に向かう頃には頭も足も重くなっていました。
ところが、アートや美術館をめぐる研究を調べていく中で、一つのことに気づきました。
「わからない」という感覚は、アートとの関わりを断ち切る理由にはならず、むしろその状態のまま向き合い続けることが、思考と感性に対して具体的な変化をもたらすらしい、ということです。
この記事では、アートに触れることが人の思考や感性にどのような影響を与えるのかを、科学的な研究と学芸員としての経験をもとに見ていきます。「アートはビジネスエリートが教養として学ぶもの」という印象があるかもしれませんが、それは一面に過ぎません。経営者たちがアートに向かう理由にも触れながら、アートとの向き合い方をもう少し広い視野から考えてみます。
アートに触れると、思考に何が起きるのか

「アートと思考力に関係があるのか」と問われると、直感的にはつながりにくいかもしれません。しかし、この問題は研究者たちにとっても長年の関心事でした。その中でも、興味深いデータが残っています。
ミシガン州立大学のロバート・ルートバーンスタイン教授(生理学)とミシェル・ルートバーンスタイン准教授(演劇学)の夫妻は、20年以上にわたって「ノーベル賞受賞者の創造性と趣味の関係」を研究しました。1901年から2008年の間にノーベル賞を受賞した773名の経歴・趣味・関心領域を分析した研究(Root-Bernstein et al., 2008, Journal of Psychology of Science and Technology, 1(2):51-63)の中で、彼らは一つの際立った事実を示しています。
ノーベル賞を受賞した科学者は、一般的な科学者と比較して、工芸や美術の訓練を受けている可能性が約9倍高い、というデータです。
さらに細かく見ると、ノーベル賞科学者は一般的な科学者と比べて、絵を描いたり彫刻をしたりする趣味を持つ割合が約7倍、音楽の演奏・歌唱・演技を趣味とする割合が約22倍、詩や小説・脚本の執筆を行う割合が約12倍という数字も出ています(2008年の研究に基づく複数の解析より)。
この研究が示しているのは「アートをやれば賢くなる」という単純な話ではありません。多くのノーベル賞受賞者が、アートや工芸への関心を「余暇の気晴らし」ではなく「本業の思考を豊かにするもの」として意識的に位置づけていた、という点です。
1997年にノーベル文学賞を受賞した劇作家・俳優のダリオ・フォは、インタビューでこう述べています。「芝居を書く前に、絵で描くことがある。書いていて行き詰まったときは、書くのをやめて、動きを絵で描き出すことで問題を解決する」と語っています。ルートバーンスタイン夫妻の研究では、こうした証言が多くの受賞者から集まっています。
では、アートに触れることで思考に何が起きているのでしょうか。
「観察する」という訓練
アートに触れるとき、人は意識的・無意識的に「観察」を行っています。目の前の作品に何が描かれているか、色はどう使われているか、線の強弱はどこにあるか、何が省略されているか。これは単に「見る」という行為とは少し異なります。
ルートバーンスタイン夫妻は、創造性に優れた科学者やアーティストが共通して用いる「思考のツール」を13種類特定しており、その中の一つに「観察(observing)」があります。神経科学の父と呼ばれるサンティアゴ・ラモン・イ・カハルは、肖像画家としての訓練で顔の非対称性を観察する目を養い、後に化学・物理学の学生としてその観察眼を酒石酸の結晶研究に応用しました。アートで鍛えた「見る力」が、別の領域で機能した例です。
美術館で作品の前に立ち、「この絵の中に何があるか」を言語化しようとするとき、私たちは普段の生活では使わない注意力の使い方をしています。その繰り返しが、物事を見たときの解像度を少しずつ変えていく可能性があります。
「正解のない場所」に留まること
もう一つ、アートが思考に与える特徴的な影響があります。それは「答えのない状態に留まり続ける耐性」です。
数学や化学には正解があります。科学的な仮説も、最終的には検証によって正誤が確認されます。しかしアート作品の前では、「正解」は存在しません。この作品が「良い」のか「わからない」のか、何を感じるべきなのかも、誰も教えてくれません。その曖昧な状態の中で、それでも向き合い続けるという体験は、「確定できないことを保留しながら考え続ける」という思考の筋肉を使います。
現代の教育や仕事は、速く正確な答えを出すことへの要求が強く、そういう環境に長くいると、「わからない」「決められない」という状態を不快に感じる感度が上がっていきます。
アートとの接触は、その感度を少し下げる作用があるのかもしれません。
なぜ経営者はアートに向かうのか

2017年に出版された山口周氏の著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?──経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社新書)は、日本のビジネス界に「美意識」という概念を持ち込んだ一冊として知られています。グローバル企業が幹部候補を著名なアートスクールに送り込んだり、ニューヨークやロンドンの知的専門職が早朝のギャラリートークに参加したりする現象を、山口氏は「こけおどしの教養ではなく、極めて功利的な目的がある」と指摘しました。
なぜ経営者がアートに向かうのか。その背景を二つの観点から見ていきます。
「正解のコモディティ化」という現象
山口氏が指摘しているのは、「分析・論理・理性」を軸にした意思決定では、もはや他社との差別化が難しくなっているという現実です。
市場の調査手法も、財務分析のフレームワークも、世界中の優秀な人材が同じツールを使えば、同じような答えが出てきます。山口氏はこれを「正解のコモディティ化」と表現しています。論理的に正しい答えは、論理的に考えれば誰でもたどり着けるものになっている。その状況で差別化のカギになるのが、数字や言語では説明しにくい「美意識」や「世界観」や「ストーリー」だ、というのが山口氏の主張です。
アートが持っているのは、まさにその「コピーされない何か」を生み出す力と関わっています。アーティストが作品を通じて表現するのは、既知のフレームから外れた視点であり、言語化される前の感覚です。その視点に触れる経験が、経営者の判断軸を広げると考えられています。
美意識という判断軸
山口氏が「美意識」という言葉で指しているのは、単なる審美眼ではありません。「何が真か」「何が善か」「何が美か」という、カントの哲学に由来する三つの判断軸を総合したものです。
この枠組みで言えば、美意識とは「数字や論理だけでは説明できないものを判断する力」です。企業のビジョンが「自社らしいか」、ある施策が「倫理的に許容できるか」、製品のデザインが「美しいか」。こうした判断は、論理的思考の外側にある基準によって行われます。その基準を持つために、アートや哲学や文学に触れることが有効だ、というのが山口氏の立場です。
この考え方は、経営者だけに当てはまるものではありません。「自分はどう感じるか」「自分にとって何が大切か」という判断軸を持つことは、仕事の選択においても、日常の消費においても、人間関係においても、大きく意味を持ちます。経営者がアートに向かう理由は、経営という特殊な文脈に限定された話ではなく、「不確かな状況の中で自分の軸で判断する力」を必要としているすべての人に通じる話です。
「わからない」は入口である

美術館でよく聞く言葉があります。「現代アートはよくわからない」というものです。
これは事実だと思います。現代アートの多くは、「何が描かれているか」「何を表現しているか」がわかりやすく提示されていません。作者の意図を知らなければ理解できないものも多く、文脈や時代背景の知識がなければ全体像が見えないものもある。
ただ、「わからないから意味がない」とは少し違うかもしれません。
ルートバーンスタイン夫妻の研究では、科学者とアーティストに共通する思考ツールの一つとして「アナロジー(類比)」が挙げられています。全く異なるように見える二つのものの間に共通点を見出す力です。アート作品の前で「これは何に似ているだろう」「なぜこの色を使ったのだろう」と考え続けることは、まさにこのアナロジーの筋肉を動かしています。
また、私の学芸員として展示の現場に関わっていた経験から言えば、作品を「理解する」ことと「受け取る」ことは別のことです。学術的・歴史的な文脈を知ることで作品の見え方は変わりますが、それが鑑賞の唯一の正解ではありません。「色合いが好きだ」「なんとなく落ち着かない気持ちになる」「この描き方がすごいと思う」という感覚も、作品が来館者に対して起こさせた確かな反応です。
「わからない」と感じながらも作品の前に立ち続けること。それ自体が、思考と感性に対して何かを働かせています。答えを出そうとするのではなく、ただ留まること。その時間が積み重なった先に、言語化できない形での変化があるとしたら、それはアートが持つ本来の力に近いものかもしれません。
私自身が美術館で「わからない」と感じ続けてきたのは、もしかしたら「わかろうとしすぎていた」からかもしれないと、今は思っています。
アートとの向き合い方──「正しく見る」は存在しない

「アートの正しい鑑賞法」というものが存在するかのように語られることがありますが、実際のところ、そんなものはありません。
学術的な文脈で言えば、作品の背景・技法・時代の文脈を知ることは鑑賞の一つの手がかりになります。音声ガイドや解説パネルは、その作品が何を背負っているかを伝えてくれます。しかしそれは、鑑賞のための「必須条件」ではなく「選択肢の一つ」です。
実際に、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では教育部門が「VTS(Visual Thinking Strategies:視覚的思考育成法)」という鑑賞プログラムを開発しています。このプログラムの核心は、「この絵の中で何が起きていますか?」「なぜそう思いましたか?」「他に何が見えますか?」という三つの反復です。正解を求めるのではなく、自分が何を見て何を感じたかを言語化することを繰り返す。そのプロセスで観察力と思考力が育つとされています。
この考え方は、専門的な鑑賞法というより、アートの前で人間が自然に行うことを明示化したものです。「これは何を表しているのだろう」「なぜこの配色なのだろう」「この空白は何を意味するのだろう」。そうした問いが自然に浮かぶなら、それで十分です。浮かばないなら、ただ眺めればいいだけだったのです。
展示物だけでなく、展示の「設計」を見ることも一つの楽しみ方です。この展示では、どういった作品を入口の近くに置いているか。どの順番で見せようとしているか。照明はどの角度から当たっているか。そういう視点が加わると、展示室全体が一つのメッセージを持った空間として見えてきます。
また、美術館やギャラリー以外でもアートとの接点は作れます。街の中の看板・ポスターのデザインを意識的に見る、好きな映画の映像を「どう撮られているか」という観点で見る、料理の盛り付けに色や形の配置を考える。
これらは広い意味でアートとの関わりです。
「美術館に行かなければアートに触れられない」ということはなく、「美術館に行ったからといって毎回深く感じなければいけない」ということもありません。疲れたら早めに出ていい。一点だけ見て帰ってもいい。それで十分だと思います。
美術館での疲れの構造についてはこちらの記事でも詳しく書いています。

アートに触れ続けることが残すもの

ルートバーンスタイン夫妻の研究の中で、印象的な観察があります。多くのノーベル賞受賞者が、自分の多様な趣味と本業の研究を「意識的に結びつけていた」という点です。偶然に両方を持っていたのではなく、それぞれの活動が相互に影響を与えることを知っていて、その関係を意図的に育てていたということです。
これは何も、科学者やビジネスエリートに限った話ではありません。自分が日常で感じること・考えること・選択することに、アートで養われた何かが作用している、という状態は、特別な職業や特別な才能がなくても起こりえます。
アートに触れることで得られるものは、すぐに言語化できる形では来ないことが多い。
「この体験が後でどう役立つか」は、触れている最中にはわかりません。ただ、何かが積み重なっていく感覚は、時間とともにじわじわと現れます。
おわりに
「アートはわかる人のためのものだ」という感覚は、根強くあります。美術館に来る人は特別な感性を持った人で、自分はそうではない、と。
でも実際のところ、美術館にいる人の多くも「よくわからない」と感じながら作品の前に立っています。経営者も研究者も、アートの専門家ですら、現代アートの前では「わからない」ことがあります。その「わからなさ」を抱えながらも向き合い続けることが、アートとの関わりのほぼすべてなのかもしれません。
ここで、ルートバーンスタイン夫妻の研究が示していることを、もう一度思い出してほしいです。
ノーベル賞受賞者たちは、アートへの関与を「仕事の邪魔」ではなく「思考を豊かにするもの」として捉えていました。それは、すぐに結果が出るものではないけれど、長い時間をかけて確かに何かを変えていくものとして存在するということです。
「わからない」という感覚を持ちながら作品の前に立ち、何かを感じようとすること。それは、思考と感性に対してすでに何かを始めています。
次に美術館の前を通りかかったとき、足を止めてみてはどうでしょうか。
何かを学ぼうとしなくていい。深く感じようとしなくていい。ただそこに立ち、目の前にあるものを受け取ることから、始まるものがあります。


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