夜道を歩いていると、電柱に小さな灯りが点いているのを目にします。特に意識することなく通り過ぎてしまう、あの灯りです。でも、なかったら割と困るあの灯り。
ところで、あれは誰が管理しているのでしょうか?
道路を照らすのだから行政だろう、と思う方が多いかもしれません。しかし実際には、住宅街の細い路地に設置された灯りの多くは、地域の自治会や町内会※が管理しています。球切れの対応も、定期的な点検も、場合によっては電気代の支払い手続きも、です。
日常生活のなかで自治会を意識する場面は少ないかもしれませんが、夜道を安全に歩ける背景のひとつに、住民組織の地道な実務があります。では、なぜそのようになっているのでしょうか。
その経緯をたどっていくと、戦後日本の思わぬ一場面にたどり着きます。
※「自治会」と「町内会」は地域によって呼び方が異なりますが、同じ性質の住民組織です。この記事では歴史的な文脈では「町内会」、現代の文脈では「自治会」を主に使い分けるよう意識しました。

街路灯と防犯灯──見た目は似ていても、管理者がまったく違う

夜道を照らす灯りには、大きく分けて「街路灯」と「防犯灯」の二種類があります。どちらも電柱や専用の支柱に取り付けられた照明ですが、誰が設置し、管理しているのかという点で、仕組みがまったく異なります。
街路灯は、国道・県道・市道といった公の道路に沿って設置された照明です。道路の管理者である行政(国や都道府県、市区町村)が設置と維持管理を行い、電気代も行政が負担します。大通りや幹線道路で見かける、比較的明るい照明のほとんどがこれにあたります。費用は税金でまかなわれており、住民が直接負担することはありません。
一方、防犯灯は住宅街の路地や袋小路、通学路などに設置された比較的小型の照明です。こちらは多くの場合、自治会が設置・管理を担っています。電気代については行政から補助が出る地域もありますが、管理の実務を住民組織が行うという構造は、全国的に共通しています。
たとえば大阪府堺市では、市内に約44,000灯の防犯灯が設置されており、その多くを各地の自治会が管理しています。これはひとつの市区町村の例に過ぎませんが、全国規模でみれば、防犯灯の管理が住民組織に委ねられている数は相当なものになります。
また、行政によっては、街路灯と防犯灯を区別するための案内をホームページに掲載していることもあります。しかしそれを意識して読む機会のある住民は多くなく、「夜道を照らす灯りはすべて行政が管理しているもの」という認識のまま暮らしている方がほとんどだと思います。
では、防犯灯はなぜこのような仕組みになっているのでしょうか?
防犯灯が「自治会管理」になった経緯

この管理体制は、戦後日本の特殊な歴史的状況から生まれたものです。当時の経緯を順番に追っていきます。
戦前の日本における街灯のかたち
そもそも戦前の日本では、街路の照明は現在とは大きく異なる仕組みで成り立っていました。
昭和初期の東京を例にとると、市内の街路灯の多くは国や市といった行政ではなく、町内会が設置・管理していました。住民が費用を出し合い、自分たちの町の夜道を照らす。それが当時の「当たり前」のかたちだったのです。公的な機関が街路照明を整備するという発想は、現代ほど一般的ではなく、地域コミュニティが自らの手で生活環境を整えるという慣行が根付いていました。
街灯のほかにも、下水路の管理や道路の補修など、現代では行政が担うような業務を、当時は住民組織が引き受けていた例は少なくありませんでした。そのため、地域の灯りを地域で守るという感覚は、当時の住民にとってごく自然なことだったのかもしれません。
この状況が大きく変わったのは、1940年(昭和15年)のことです。内務省の訓令によって、全国の町内会・部落会が国家の末端行政組織として位置づけられました。物資の配給や防空活動、国策の伝達といった戦時体制を支える役割を担わされるなか、街灯の管理も引き続き住民組織が担っていましたが、その性格はもはや自発的なものとはいえませんでした。
住民の自治の場として生まれた組織が、上からの命令によって国家機構の一部へと変質した時期です。
GHQによる解散命令と、暗くなった夜道
1945年の終戦後、状況は一変します。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は1947年、「町内会・部落会・隣組(となりぐみ)の解散に関する覚書」を発令し、これらの組織を全面的に解散させました。
GHQがこの決定を下した背景には、明確な理由がありました。町内会・隣組が戦時中に国家の動員装置として機能し、住民を監視・管理する役割を担っていたことを深刻な問題と捉えたのです。全体主義的な住民組織が再び力を持つことを防ぐため、徹底的な解体を選択しました。
しかし、組織が解散したことで夜道の暗さが際立つことになります。町内会が長年にわたって担ってきた街灯の設置・管理は宙に浮いた状態となり、日本各地の住宅街の路地は文字通り暗くなっていきました。
行政がすぐにこの空白を埋めるだけの体制も予算も整っていないなかで、住民の安全に直接関わる問題が生じていたのです。戦後の混乱期には治安の悪化も深刻で、夜道の灯りが失われることは、単なる不便を超えた問題として受け止められていました。
「防犯」という名前が生まれた、ある交渉
住民の夜道の安全を守りたい警察は、この事態をなんとかしようとしました。しかし、住民組織を新たに立ち上げることは、GHQの解散命令の趣旨に抵触する可能性があります。
そこで警察はGHQとの交渉に臨み、「防犯・防災を目的とした住民組織であれば、新たに設立することを認める」という許可を取り付けました。政治的・行政的な統制のためではなく、あくまで地域の安全を守るためという位置づけであれば問題ない、という判断でした。こうしてGHQの許可のもと、各地に設立されたのが「防犯協会」という住民組織です。
防犯協会は、住民の寄付などを財源として街灯を設置・管理しました。費用は町内会があった時代と同様に住民が負担し、管理の仕組みも事実上これまでと変わりませんでしたが、組織の名称と目的が「防犯」という言葉で包まれたことで、GHQの許可を得ることができました。
設置した主体が「防犯」を目的とした組織だったことから、これらの灯りは「防犯灯」と呼ばれるようになりました。
これは実質的には戦前の町内会による街灯管理の復活に近いものでしたが、名称と建前を変えることで占領下という特殊な条件をくぐり抜けた、ということでもあります。つまり「防犯灯」という名称の成り立ちには、GHQとの交渉という歴史的背景が刻まれているのです。
夜道を照らすありふれた灯りに、占領期の複雑な経緯が込められていたとは、なかなか想像しにくいことです。しかし、この経緯こそが「防犯灯は住民組織が管理するもの」という原則の出発点になりました。
講和条約後の復活と「防犯灯」体制の定着

1952年、サンフランシスコ講和条約の発効とともにGHQは日本から撤退しました。その後、各地で自治会が急速に復活していきます。
(自治会そのものがどのような経緯で生まれ、なぜ今も残り続けているのかについては、こちらの記事で詳しく辿っています。)

これは行政の指示によるものではなく、ごみの処理、火災や水害のときの助け合い、冠婚葬祭の手伝いといった生活上の必要から、住民が自発的に組織を再建した結果でした。
防犯協会が担ってきた防犯灯の管理は、自治会の復活とともにそちらへと引き継がれていきます。こうして「防犯灯は自治会が管理するもの」という慣行が各地に定着していきました。
ただし、この時期の自治会は防犯灯の電気代まで自前で負担していたため、財政上の重荷になっていました。当時、町内会の活動は「寄付と衛生と街灯」と呼ばれていたといい、それほど街灯の管理が自治会の主要な業務として認識されていたことがわかります。
しかし都市化が進み、住宅街が拡大するにつれて防犯灯の設置数も増え、電気代の負担は重くなる一方で、「自治会は行政の下請けになっている」「街灯の費用まで住民が出す必要があるのか」といった不満が各地で高まっていきます。
その後、この構造を変えた出来事がありました。それが、1964年の東京オリンピックです。
東京都は、オリンピック開催を前にした「美しい町づくり運動」への協力を自治会に求めるにあたり、防犯灯の電気代を都が負担するという枠組みを整えました。清掃活動や街の美化運動に自治会が協力し、その見返りとして電気代の負担を都が引き受けるという、いわば取引のかたちです。「費用は行政が持つ、管理の実務は自治会が担う」というこの構造は、東京オリンピックを契機として全国に広まっていきました。明文化された制度というよりも、互いの必要から生まれた慣行が全国標準として定着したのです。
これは、行政にとっては予算を補助するだけで実務の人手が確保でき、自治会にとっては電気代の重荷が軽くなるという、双方にとって好都合な落としどころとして広まった側面もあります。
この枠組みは、今日に至るまでほぼそのまま続いています。
補助金の仕組みと、自治会が担う「見えない実務」

現在、防犯灯の電気代については、多くの行政で補助制度が設けられています。ただし、その内容は行政によってかなり差があります。
行政が電力会社へ直接支払う方式を採用しているところもあれば、自治会がいったん支払い、後から補助金として還付される方式をとっているところもあります。後者の場合、自治会の会計担当者は年間を通じて申請書類の作成・提出という事務作業を担うことになります。補助の対象となる灯数の確認、電気料金の領収書の保管、期限までの申請——こうした細かな作業は、役員が交代するたびに丁寧な引き継ぎが必要になる業務でもあります。
球切れや故障への対応については、さらに状況が複雑です。補助の有無や上限額は行政ごとに異なり、費用の一部を自治会が持ち出す場合も少なくありません。また、故障を発見するのも、修理業者に連絡するのも、現場を確認するのも、基本的には自治会の担当者です。灯りが切れていることを誰かが気づき、誰かに伝え、誰かが動いて初めて、翌日の夜道は明るく保たれます。
電気代の試算として、東京電力の「公衆街路灯A」料金をもとに計算すると、消費電力10ワットの防犯灯を30灯管理している自治会の月額電気代はおよそ4,800円前後になります。300世帯の自治会であれば一世帯あたり月16円程度ですが、世帯数が少ない地域や灯数が多い地域では負担の割合が大きくなります。
「電気代は補助されているから問題ない」と言い切れないのは、こうした事務負担と、補助の対象外となる費用が実際に発生しているからです。住民にとっては見えにくい部分ですが、自治会の役員にとっては毎年繰り返される具体的な負担として積み重なっています。自治会費のなかに防犯灯の維持費が含まれている地域もあり、加入していない住民が恩恵だけを受けているという不公平感が摩擦を生むこともあります。
加入率の低下が生む、防犯灯管理の現在地

近年、「自治会が防犯灯を管理する」という仕組みに、構造的な問題が表れてきています。背景にあるのは、全国的な自治会加入率の低下です。
宮古島市議会の2023年の質問資料によれば、市内の自治会が管理する防犯灯の年間電気代は平均で約14万円にのぼり、半数以上の自治会が財政上の大きな負担と感じていると報告されています。34の自治会のうち、年間電気代が10万円を超えるのは17自治会、さらに30万円を超えるところも5自治会あったとされています。これは離島という特殊な事情も一部あるとはいえ、加入世帯が減り続ける地域に共通する状況を象徴しています。
加入率が下がるということは、維持費の負担が残った会員に集中するということを意味します。さらに、防犯灯の点検や球切れの確認・対応を担う人手も減ります。役員の高齢化も重なり、「誰がやるのか」という問題が実務の現場で具体的な課題として浮上しています。夜間に防犯灯の点灯を確認する作業ひとつとっても、高齢の役員が担い続けるには限界があります。
こうした状況を受け、防犯灯の管理を自治会から行政へ移管する動きも一部の市区町村では始まっています。また、LED化によって消費電力と維持コストを大幅に下げることを行政が積極的に支援するケースも増えています。府中市では、防犯灯を含む照明設備の管理を民間事業者に包括的に委託する方式を導入し、自治会と行政双方の負担を軽減する試みが進んでいます。
「住民組織が担う」という原則は変わっていませんが、その枠組みは少しずつ動き始めています。GHQとの交渉から始まったこの仕組みが今後どう変化していくかは、地域の実情によって異なるでしょうが、「自治会が管理するのが当然」という前提がいよいよ問い直される局面に差し掛かっています。

夜道の灯りが照らしていたもの
防犯灯が今のかたちになるまでの経緯を振り返ると、それが住民の純粋な自発意志だけで生まれてきたわけではないことがわかります。
戦前には町内会の自主的な活動として街灯があり、戦時中には国家の末端機構として組み込まれ、敗戦後にはGHQによって解散を命じられ、その後は警察がGHQと交渉して防犯協会を立ち上げ、講和条約後に自治会として復活するとともに管理を引き継ぎ、東京オリンピックを前にした都と自治会の取引が全国に広まって今の枠組みが定着した——夜道の灯りひとつに、これだけの経緯が積み重なっています。
「防犯灯」という言葉も、単に防犯を目的とした灯りという意味だけではありませんでした。GHQから住民組織の設立許可を取り付けるために「防犯」という目的を前面に出した、現実的な判断の産物でもあります。名前のなかに、占領期の状況が刻み込まれているのです。
制度というものは、最初から合理的に設計されるわけではありません。時代の制約のなかで生み出されたしくみが、そのまま慣行として定着し、何十年もかたちを変えずに続いていくことがあります。防犯灯の管理体制も、その典型といえます。誰かが「こういう制度にしよう」と決めたわけではなく、歴史の流れのなかで積み重なった結果として、今日の仕組みがあります。そのことを知ると、普段なにげなく通り過ぎている夜道の風景が、少し違って見えてくるかもしれません。
帰り道、ふと視界に入ったあの灯りには、誰かが費用を出し、誰かが書類を書き、誰かが夜道を歩いて球切れを確認し報告している。そうやって長い時間をかけて守られてきた灯りの歴史が、今もなんとか続いています。


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