「老後のお金、どうしてる?」
「NISAってもう始めた?」
そんな話題が出たとき、なんとなくふわっとした空気になることがあります。誰かが苦笑いしたり、話を早めに切り上げようとしたり。傷つく話でも秘密の話でもないのに、お金のことになると場の雰囲気が少し変わるような気がします。
そういう感覚を、あなたも一度は覚えたことがあるのではないでしょうか?
これは気のせいではありません。
日本では長い時間をかけて、お金の話を「しにくい」空気が社会の中に積み重なってきました。それは個人の性格の問題ではなく、歴史・文化・教育が積み重なった、もっと根の深い話です。
この記事では、日本でお金の話がタブー視されてきた背景を、歴史と教育と文化という三つの面から見ていきます。「お金に詳しくなろう」という話よりも少し手前にある、「なぜ自分はお金の話がこんなに苦手なのか」というところから、一緒に立ち止まってみたいと思います。
「お金の話」がこんなに出しにくい理由

お金に関して漠然とした不安を持っている人は、実はとても多いです。
日本FP協会の「くらしとお金に関する意識調査2020」によると、現在の収入・預貯金への不安を感じている人は約6割、支出への不安は約5割にのぼり、将来についてはさらに高い割合の人が不安を抱えているという結果が出ています。不安を持っている人はこんなにいるのに、なぜかお金の話は表に出てきにくい。この矛盾のような状態には、いくつかの理由があります。
話題として出しにくい、独特の空気
日本では「お金の話はちょっと品がない」「収入を人に言うのはよくない」という感覚を持っている人が多くいます。これは個人の礼儀の問題に見えますが、実際には社会全体で共有されている空気です。
職場で自分の収入や貯蓄額を話すことはほぼなく、家計の実情を友人に打ち明けることにも、どこかためらいが生まれます。お金に関する知識は生活に直結する大切なものなのに、それを人と話すことには後ろめたさが伴っているのが現状です。
この感覚の背景には、日本の「察し合う文化」も関係しています。言葉にしなくても雰囲気で察することが求められる高コンテクストな社会では、「空気を読む」ことが重要なコミュニケーションになります(日本の察し文化の構造については、以下の記事で詳しく書いています)。お金の話が「場を乱すもの」として扱われやすいのも、この延長線上にある現象といえます。

知らないことへの後ろめたさ
もうひとつ厄介なのは、「お金のことをよく知らない自分」への後ろめたさです。
投資や税金、社会保険の話になると、「自分だけよくわかっていないのではないか」という感覚が湧いてくることがあります。でも実際には、まわりの人もそんなに詳しいわけではありません。お互いに知らないまま、知らないことを言い出せないまま、話題ごと避けてしまっている、ということが多いのです。
この後ろめたさは、知識の多少の問題というより、「知っていて当然」という前提が社会にあるかのように感じさせられることから生まれています。しかし、その「当然」がそもそも根拠のないものだったとしたら、どうでしょうか?
そこには、実は歴史的な経緯が深く関わっています。
日本でお金がタブーとされてきた、歴史的な流れ

日本で「お金の話はしにくい」という感覚が生まれた背景には、江戸時代から続く歴史的な経緯があります。これは一朝一夕で形成されたものではなく、数百年にわたって積み重なってきた価値観の堆積です。
現代を生きる私たちの感覚にも、この歴史は確実に影を落としています。
江戸時代の商人観と、お金への眼差し
江戸時代の日本社会には、「士農工商」という言葉で表される身分観が存在していました。ただし近年の歴史研究では、これが固定的な制度として機能していたわけではなく、実態は身分間の流動性もあり、より複雑だったことが明らかになっています。一方で、儒教的な道徳観に基づく「商人は利を追う者」という見方は、少なくとも建前や規範の層では広く共有されていたと考えられています。
儒教には「義利の別」という概念があります。徳のある人間は道義(義)を重んじ、金銭的利益(利)を公然と求めることを慎む、という倫理観です。この価値観のもとでは、お金を扱うことを生業とする商人は、道義よりも利を優先する存在として低く見られやすかったのです。実際には、大阪の豪商や江戸の大店(おおなだ)は大きな経済力を持ち、文化や芸術のパトロンとして社会的な影響力も持っていました。しかし、「お金を扱う仕事は品のないもの」という建前は、社会の規範意識として根を張り続けました。
仏教の価値観と「清貧」という美学
江戸時代より前から、日本社会には仏教の価値観も深く浸透していました。仏教における「不貪(ふとん)」、つまり「むさぼらないこと」を美徳とする教えは、お金や物質的豊かさへの欲求を「煩悩」として位置づけてきました。
こうした考え方は、「貧しくても心の清らかさを保つことを尊ぶ」という美学と結びつき、「清貧」という言葉にも表れています。一方でこの価値観は、「お金を積極的に求めること=欲深さ」という感覚も生みやすく、儒教の「義利の別」とも響き合いながら、「お金のことを表立って語るのは品がない」という空気を社会に広げていきました。
明治維新によって制度としての身分秩序は解体されましたが、長い時間をかけて社会に染み込んだ価値観はそう簡単には変わりませんでした。
「お金の話はしにくい」という感覚として、形を変えながら現代にまで引き継がれてきたのです。

「お金は卑しいもの」という価値観が、統治を安定させた可能性
また、こうした価値観は、単なる道徳規範にとどまらず、統治のうえでも機能していた可能性があります。江戸幕府が儒教を統治のイデオロギーとして積極的に取り入れたことは歴史的に知られており、「利を追うことは徳に反する」という価値観の普及は、民衆が経済的な力をつけることへの抑制として働いた面があったとも考えられます。
後世の解釈として「生かさず殺さず」という言葉が伝わっています。民衆を反乱を起こせないほど困窮させず、かといって豊かにもしないという統治の発想を指すものです。
これが幕府の明文化された方針であったわけではありませんが、「お金への欲求を持つこと自体を恥とする価値観」が広まった結果、民衆が富を積極的に求めず、経済的な力を政治的な力に転化しにくい状態が生まれたという見方は、一定の説得力を持ちます。
この説は意図的な設計であったかどうかは確認できません。ただ、価値観と統治構造が互いを強化し合うかたちで機能していたという解釈は、現代の歴史研究でも語られることがあります。
学校で教わらないまま、大人になる国

歴史的な価値観とともに、もうひとつ大きな要因があります。「教育」の問題です。
日本では長い間、学校でお金に関することをほとんど教えてきませんでした。税金の仕組み、社会保険、資産の運用、老後に必要なお金の考え方。これらは生活に直結する重要な知識ですが、義務教育の中ではほぼ扱われずにきたのです。
「知っていて当然」という空気がある一方で、教わる場はなかった。この構造が、お金に対する苦手意識をさらに強くしてきたと考えられます。
国際比較で見えてくる日本の現状
金融広報中央委員会が実施した「金融リテラシー調査2022」では、学校や勤務先などで金融教育を受けたと答えた人の割合が、日本はわずか7%でした。同じ調査でのアメリカは20%です。
「自分の金融知識に自信がある」と答えた人の割合は、日本が12%に対してアメリカは71%という結果も出ています。さらに、金融知識を問う設問の正答率においても、日本はイギリス・ドイツ・フランスといった主要国を下回っています。
この差は、日本人がお金に疎いという話ではありません。知識を得る機会そのものが、制度として用意されてこなかった、ということです。2022年からは高校で「資産形成」に関する授業が本格的に始まり、2024年にはJ-FLEC(金融経済教育推進機構)も設立されました。
変化は確実に起きています。ただ、現在の30代・40代・50代の方々のほとんどは、こうした変化より前に学校教育を終えた世代です。
「教わっていない」ことへの罪悪感という矛盾
ここに、少し奇妙なことがあります。
お金のことをほとんど学校で教わらないまま社会に出た。それなのに、社会に出ると「知っていて当然」という空気があります。
NISAや確定申告の話が出たとき、ちゃんと理解できていない自分を恥ずかしく感じてしまう。
でもそれは、誰かに教わる機会がなかっただけのことです。知らないことは、その人の知的能力や勤勉さとは関係がありません。
「教えてもらっていないのに、知らないことを後ろめたく感じさせられる」というこの構図が、お金への苦手意識をさらに深くしているように思います。
私自身、FPの資格勉強を始めるまでは、お金の話は「なんとなく怖い話」という印象しかありませんでした。それどころか恥ずかしながら、税金関係はさっぱりでした。給与明細もまともに見方すらわからず、口座に振り込まれた金額を見て、「これが自分のお金である」くらいの解釈です。
勉強を始めて初めて、「これは知識の話であって、センスや才能とは関係ないんだ」と実感しています。
「お金の話が苦手な自分」が形成されるもうひとつの背景

歴史的な価値観と教育の空白に加えて、もうひとつ見落とされがちな要因があります。それは「お金と感情」の関係です。お金への苦手意識は、単なる知識不足から来ているのではなく、感情的な経験とも深く絡み合っています。
家庭の中でも、お金は「話しにくい話題」だった
多くの家庭では、お金の話は「揉め事の種」か「不安を呼ぶもの」として扱われてきました。親が家計の苦しさを口にするとき、それは心配そうな声色とともにやってきます。
「うちにはそんなお金ない」「お金のことは大人になったらわかる」という言葉を、子どものころに聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
お金は「ある・ない」で家族の空気を変えるもの、という体験が積み重なると、お金の話題そのものにネガティブな感情が結びついていきます。学術的には、このような感情的な刷り込みは「情動条件づけ(emotional conditioning)」と呼ばれる現象に近く、特定の話題や場面に対して反射的な不快感や回避行動が生まれやすくなることが知られています。
「お金の話=重い・怖い・気まずい」という感覚は、こうして知らないうちに身体に染み込んでいきます。
「お金への関心=欲深さ」という無意識の等式
もうひとつ根強いのは、「お金に関心を持つこと=欲深い・がめつい」という感覚です。
これは先述した儒教・仏教的な価値観の延長でもあります。「お金よりも大切なものがある」「清く正しく生きることが美しい」という感覚は、一つの価値観としては否定できません。ただし、それが「お金のことを考えること自体が浅ましい」という感覚に転じてしまうと、生活の現実と正面から向き合うことが難しくなっていきます。
老後の資金を考えることは「計算高い」ことでしょうか?
保険の仕組みを理解しようとすることは「守銭奴」的な発想でしょうか?
そうではないはずです。お金への関心は、自分や家族の生活を守るための、ごく自然な関心なのです。
「清貧」が美徳とされる文化的土壌の中で、「お金に興味を持つ自分」をどこかで恥じてしまう感覚は、歴史的に形成された価値観の反射であって、個人の人格とは本当は関係がないのです。
お金が苦手な人ほど、損をしやすい構造になっている

ここまでは、お金の話がしにくくなった歴史的・文化的・感情的な背景を見てきました。しかし残念ながら、現実社会は「お金に詳しくない人が損をしやすい」仕組みで動いています。これはお金が苦手な人を責める話ではなく、仕組みとして理解しておくべきことです。
知識の非対称性が生む、静かな格差
お金の世界には、「知っている人と知らない人のあいだに、自動的に差が生まれる仕組み」が数多く存在します。
わかりやすい例のひとつが、税制の優遇制度です。NISAやiDeCoは、制度を知って使った人だけが非課税の恩恵を受けられます。知らなければ、同じように働き、同じように貯めていても、税金の扱いが異なります。
ふるさと納税も同様で、制度の存在を知っているかどうかが、実質的な家計の差になります。
また、保険においても同じことが言えます。必要以上の保険料を払い続けていても、見直すための知識がなければ気づけません。老後の年金についても、繰り下げ受給の仕組みを知っているかどうかで、生涯の受取総額が変わってきます。
こうした制度は、「積極的に学びに行った人」にだけ開かれているわけではありません。でも実際には、苦手意識によってお金の話を避けてきた人ほど、こういった情報と縁遠くなりがちです。
「わからない」を放置することのコスト
お金についてよくわからないまま放置することには、直接的な機会損失以外にも、もうひとつのコストがあります。それは「漠然とした不安」が消えないことです。
お金の不安の多くは、「具体的に何が不安なのかわかっていない」という状態から来ています。いくら必要なのか、今どのくらい準備できているのか、何から手をつければいいのか。これらが見えていないままだと、不安だけが宙に浮いた状態が続きます。
行動経済学の観点から見ると、漠然とした不安は「現状維持バイアス」を強化します。現状維持バイアスとは、変化に伴う不確かさを過度に恐れ、今の状態をそのまま続けようとする心理的な傾向です。不安があるほど動けなくなり、動けないほど不安が続く、というループが生まれやすくなります。
「お金のことを考えたくない」という気持ちは、決して怠惰の表れではありません。長い歴史と教育の空白が積み重なり、感情的な回避が形成された結果です。
ただ、その回避がコストになっているという事実もある。
そのことだけは、頭の片隅のどこかに置いておいてもらえたらと思います。

では、どこから始めればいいのか

ここまで読んで、「じゃあ結局、勉強しろということか」と感じた方もいるかもしれません。
そういう結論も一つです。ですが、知識を詰め込むことが目的ではないし、「お金に詳しい人になること」がゴールでもないと思っています。
ただ、一つだけ言えることがあります。「苦手意識」と「知識の不足」は、少し別の話だということです。
苦手意識は感情です。これはすぐには変わりません。歴史的・文化的・感情的に積み重なったものですから、「心がけ」だけでどうにかなるものでもありません。でも知識は、少しずつ増やすことができます。そして知識が少し増えると、「わからないから怖い」という漠然とした不安の輪郭が、少しずつはっきりしてきます。
「全体像」を一度だけ眺めてみる
最初の一歩として、お金の全体像を俯瞰することは意外なほど効果的です。
個別のテクニックや節約術を学ぶより先に、「お金に関わる知識にはどんな領域があるか」を知るだけで、自分が何を知らないのかが少し見えてきます。私の経験談ではありますが、FP(ファイナンシャルプランナー)の学習領域はその地図としては非常に便利です。
ライフプランニングと資金計画(社会保険や年金)、リスク管理(保険)、金融資産運用(債券や投資信託、NISA)、タックスプランニング(税金)、不動産、相続・事業継承という六つの分野で構成されており、お金に関わるほぼすべての話題がここに収まります。
資格を取る必要はまったくありません。「こういう地図があるんだ」と眺めるだけでも、「自分はこのあたりが特に弱いな」という感覚が生まれます。
私自身、FP3級の勉強を試しにやってみたところ、生きていくうえで必要な知識が想像以上に記載されており、「なんで今まで誰も教えてくれなかったの???」と思ったほどです。

「正しい情報源」を一つだけ持っておく
お金に関する情報は、インターネット上に大量にあります。しかし、その中には誇張されたものや、特定の商品に誘導することを目的としたものも含まれています。司書として情報を扱ってきた立場から言うと、情報源の信頼性の見極めは、お金の勉強においては非常に重要です。
最初に持つ情報源として、金融庁・国税庁・日本年金機構などの公的機関のウェブサイトは信頼性が高いです。表現は堅いですが、制度の基本的な仕組みを調べるには確実です。また、知識に自信がないうちは、ファイナンシャルプランナーなど、中立な立場の専門家に相談することも選択肢になります。ただし、ファイナンシャルプランナーについては利益相反しない独立系のファイナンシャルプランナーを選ぶことが望ましいです。
なお、「情報を一つの場所だけで得る」ことを避けるという習慣は、お金の情報に限らず有効です。
「全部やろう」と思わない
お金の話が苦手な方ほど、始めるときに「ちゃんとやらなければ」という気持ちが強くなりがちです。「今まで知らなかった分を取り返さなければ」という焦りが、かえって動き出せなくする原因にもなります。
知識は一度に身につくものではありませんし、完璧に理解してから行動を始める必要もありません。NISAの仕組みを完全に理解するより先に口座を開いてみることも、固定費の見直しを全部終えてからでなく一項目だけ試してみることも、十分な一歩です。
小さく始めることへの後ろめたさは、必要ありません。

お金の話が苦手だったことは、あなたのせいではない
「お金の話が苦手」という感覚は、日本社会が長い時間をかけて作り上げてきたものです。江戸時代からの商人蔑視と儒教・仏教的な価値観、学校教育の中にお金の話がほぼなかった歴史、家庭の中でお金が「重い話題」として扱われてきた経験。それらが重なり合って、今の「苦手意識」があります。
金融広報中央委員会の調査で、金融教育を学校で受けたことがあると答えた人が日本では7%しかいなかったという数字は、「苦手な人が多いのは当然だった」という事実をそのまま示しています。
とはいえ、「だから仕方ない」で終わる話でもありません。
知識の非対称性は現実にあり、知らないままでいることにはコストが伴います。苦手意識を持ったままでも、少しずつ知識を増やすことはできます。感情と知識は別物ですから、苦手な感覚を抱えながらでも、学ぶことはできます。
歴史を知ることは、「自分がなぜこう感じるのか」への納得につながります。「お金の話を避けてきた自分は、何かが欠けているのだろうか」という感覚があるとしたら、この記事がその感覚を少し和らげるものになっていればと思います。
お金との付き合い方に、正解も模範解答もありません。ただ、少し知ることで、漠然とした不安が少しだけ輪郭を持ち始める。そういう経験は、きっとあります。
「苦手だった」という出発点は、変えられなくても、「そこから一歩」は、いつでも踏み出せるのです。


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