仕事で「議事録を作成して」と言われた。
今や、会議の音声をツールに読み込ませるだけで、発言の要点をまとめた文書が数分で自動生成できる時代です。それなのに、そのツールを使わせてもらえなかった、「(研修期間中は)AIの使用を禁止している」と言われた、といった話を耳にすることがあります。
議事録を頼まれた側からしたら、AIでサクッと作るのが最適解だと思ってしまいます。議事録ごとき、タイパを意識すると時間をかけるべきではない、と。それどころか、AIの使用を禁止したりする会社や上司に対して「時代遅れじゃないか」「作成させる時間が無駄じゃないか」と感じるのは、とても自然なことでもあります。
ですが、その方針に「まったく根拠がない」かというと、そうとも言い切れない部分があります。
そしてこれは、議事録を頼まれた側だけの話ではありません。「AIを使わせるべきか」「研修中だけでも禁止した方がいいのか」と悩んでいる立場の方にとっても、判断の軸が見つかりにくい話でもあります。
この記事では、この「効率」をめぐる静かな摩擦について考えます。
テクノロジーに慣れ親しんだ新入社員の視点と、あえて制限をかける上司や組織側の視点。それぞれの背景にあるものを、認知科学や学習の研究を交えながら紐解いてみます。
「効率」の裏にある、もうひとつの目的

研修期間中、新入社員に対して、あえてAIの使用を制限する。
こうした方針をとる企業は、実際に少なくありません。
ある企業では、新入社員研修に議事録作成を取り入れていますが、その際に「AIは一切使わせない」というルールを敷いています。最新のツールを使えば、誰もが短時間で高品質な議事録を作成できるにもかかわらず、です。
あえて非効率な方法をとる背景には、「ツールが解決するのは『出力』の問題であって、『学習』の問題ではない」という組織側の考えがあるようです。つまり、完成品(議事録)を早く作ることだけが、この仕事の目的ではないという視点です。
しかし、テクノロジーの発展と共に育ってきた若い世代からすれば、この方針は受け入れがたい矛盾に見えることも事実です。 2025年に行われた調査(※)によると、就職活動中の大学生の約6割が、企業を選ぶ条件として「生成AIを業務で活用できる環境かどうか」を重視すると回答しています。
「社員が自分で考えなくなるから、特に新人には使わせたくない」と語る経営者層がいる一方で、タイパや合理性を求める若い世代との間には、すでに小さくない溝が生まれています。
「AIを使わせてくれない会社には行きたくない」という感覚と、「AIに頼らせると成長しない」という懸念が、同じ職場の中に共存している。それが今の現実です。
どちらの立場も、それぞれの文脈では理にかなっているからこそ、この議論は簡単には決着しません。
では、この対立を解き明かすカギはどこにあるのでしょうか。
そのヒントは、会社側が主張する「学習の問題」を、科学の視点から紐解いてみることにあります。
一見すると、AIに任せれば数分で終わる雑務をあえて人間にやらせるのは、ただの非効率な「根性論」や時代遅れの嫌がらせに映るかもしれません。しかし、この「あえて制限をかけ、自分で手を動かす」というアプローチが学習において持つ意味は、脳の仕組みから明確に裏付けられているのです。
(※注: IDEATECH「生成AIの活用に関する意識調査」2025年12月)

手を動かすことと、理解すること

一見すると非効率に映る「自分でやる」という行為が、なぜ学習において意味を持つのか。その根拠は、脳が情報を処理する仕組みの中にあります。
手を動かして情報を処理することは、ただ受け取ることとは根本的に異なる働きを脳に促します。さらに、「何を書くか」を自分で選ぶ行為そのものが、理解の深さを直接左右することがわかっています。

自分で処理することが、理解の深さにつながる理由
認知心理学には「生成効果(generation effect)」と呼ばれる現象があります。1978年にスラメッカとグラフが示した研究で、「他者が生成した情報をただ読む」場合より、「自分で生成した情報(言い換えた、要約した、別の形で表現した)」の方が、記憶に定着しやすいことが示されています。
議事録作成は、まさにこの「生成」の行為です。AIが出力した議事録を読み返す場合、脳はその内容を受け取るだけです。しかし、自分で書く(作成する)場合は違います。どの発言を残してどれを省くか判断しながら、内容を自分の言葉に変換して処理することになります。この能動的な処理のプロセス自体が、情報を知識として定着させます。
この「自分で作成するプロセスにおける、情報の取捨選択」がもたらす効果は、教育や学習の現場でも具体的に実証されています。
プリンストン大学のミューラーとUCLAのオッペンハイマーによる2014年の研究でも、同様のことが示されています。講義をノートパソコンで記録した学生と、手書きで記録した学生を比べたとき、手書きの学生の方が概念的な理解で優れていました。パソコンで記録した学生は発言をそのまま書き写す傾向があったのに対し、手書きの学生はすべてを書き取れないため、自然と「何が重要か」を考えながら書いていたのです。その選択の積み重ねが、理解の深さとなって表れました。
今どき、手書きで議事録作成をさせるようなところはないと思うので、少し状況は異なりますが、議事録作成もこれとよく似た構造を持っています。

何を選ぶかという判断は、どこで生まれるか
議事録を書くとき、もっとも難しいのは「どの発言をどのくらいの比重で記録するか」という判断です。会議で交わされた言葉の中から、何が決定事項で、何が補足で、何が脱線なのかを見極めること。これは、業務の背景や組織の流れをある程度知っていなければ、正確にはできません。
だからこそ、始めのうちは議事録を書こうとするたびに「ここがわからない」「この話はどういう経緯で出てきたのか」という疑問が生まれます。その疑問が、次の学びへ向かわせます。
コルブが1984年に提唱した経験学習モデルでは、「具体的な経験」「内省的な観察」「概念化」「能動的な実験」というサイクルを繰り返す中で、実践的な知識が積み上がっていくとされています。雑務は、このサイクルを動かすための「最初の経験」です。その経験がなければ、サイクル自体が始まりません。
また、人材育成の分野で広く知られる「70:20:10の法則」(ロンバルドとアイチンガー、1996年)も、同じことを示しています。人が仕事において学ぶことの約7割は「実際の業務経験」から得られ、2割は「上司や先輩からの助言や観察」から、そして研修や書籍などのフォーマルな学習から得られるのは残り1割にすぎないとされています。
その意味では、自ら手を動かす業務経験の比重がいかに大きいかがわかります。また、議事録を提出し、上司から「ここのニュアンスはこうだよ」とフィードバックをもらう時間(20%の学び)も、自分で書いたという生々しい経験(70%の学び)があって初めて機能するものです。つまり、90%がここで決まるということになります。
AIが「出力」を代行してくれたとき、その90%はどこに行くのか。それが、この議論の核心にある問題です。
会議室に入ることの意味

認知的な学習とは別に、議事録作成という業務にはもうひとつの側面があります。「会議室という場にいること」そのものが持つ意味です。
教育研究者のレイヴとウェンガーは、1991年の著書の中で「状況に埋め込まれた学習(situated learning)」という概念を提唱しています。知識とは教室で抽象的に学ぶものではなく、その知識が実際に使われている現場の中で身につくもの、という考え方です。彼らは「正統的周辺参加(legitimate peripheral participation)」という言葉で、新人が実践コミュニティの周辺から少しずつ参加しながら学んでいく過程を描いています。【PR】状況に埋め込まれた学習: 正統的周辺参加(Amazonリンクです)
議事録担当者は、ちょうどこの「周辺的な立場」にいます。
『意思決定の中心にいるわけではないけれど、その場にいる。』という状態。この立場の中で、言葉には出てこない多くのことが伝わってきます。
どの人の発言が場の空気を変えるのか。特定の話題になると誰が黙るのか。数字の話になると誰が前のめりになるのか。リーダーがどんな発言をするとき、会議の方向が決まるのか。これらは議事録には書かれませんが、組織の中で仕事をするうえで欠かせない知識です。AIが音声を記録して議事録を生成しても、場の空気や人と人の関係性は拾えません。
こうした観察は、一度の会議ではなく、何度も同じ会議に出席し続けることで積み上がります。先月の会議と今月の会議を比べたとき、あのプロジェクトの話題が出なくなったことに気づく。あの人が前回とは違うトーンで発言していることが引っかかる。そういった変化への気づきは、その場で手を動かしながら記録を続けていた人にしか生まれません。もちろん、無駄な会議であるということにも議事録を書いている側が真っ先に気付けます。すなわち、議事録を書く行為は、組織の変化を定点観測する機会でもあります。
さらに、議事録を担当することで「不明な箇所を後から確認する」という行動が生まれます。「あの発言の数字、どこから来たものですか」と先輩に聞きに行く。「この件、決定なのかまだ検討中なのかを確認してもよいですか」とメールする。こうした小さなやりとりが、組織の中に自分の居場所をつくっていく起点にもなります。AIが議事録を書いてしまえば、その確認の機会も生まれません。
私も製薬メーカーに入社して1〜2年目くらいは、まるで「議事録担当」かのような立ち位置で、ひたすら議事録を書いてきました。当時は、書き方もわからない、会議参加者の名前もわからない状態。それどころか、会議に出席しても目的すら見えず、飛び交う専門用語は理解できない、うまく聞き取れない……と、最初の頃は本当に苦労したのを覚えています。それでも、とりあえず参加者の名前だけは急いで必死に覚え、会議が終わるたびに、理解できなかった言葉を発言者の席まで確認しに行ったりしたものです。
――そこまでして書く議事録。
無駄なこと、と思うでしょうか?
えぇ、効率を重視するのであれば、確かに無駄なことです。
議事録なんてものは本来、「誰が何を言ったか」ということよりも、「何が決まり、誰がいつまでに何をするか」、そして「残る課題は何か」さえ書かれていれば十分なはずです。
しかし、この「周辺から参加する」という泥臭いプロセスこそが、ビジネスという「対人」の現場では大きな意味を持ちます。 伝統的な日本企業(JTC)に限らず、組織で働く以上、仕事はどこまでいっても「人」が相手です。そこには、効率のモノサシでは図れない「相手への気遣い」や「何を求めているかという配慮」がどうしても入り込んできます。
確かに、最高にめんどくさいんです。 しかしこれは、「無駄なこと」として一言で切り捨てるにはもったいない、大切な業務の一つだったと私は感じています。実際、私はこの議事録一つを通じて、会議に参加していた先輩や上司たちに多くのことを教えてもらい、ずいぶんと可愛がってもらいました。「よく聞きに来てくれたな」と声をかけてもらうところから、関係性が作られていったのです。関係性が作られると、それだけで仕事がスムーズに進めやすくなりました。それだけでなく、複雑に絡み合う議論の要点を掴み、簡潔にまとめるという「要約のスキル」も、この地道な繰り返しの中で自然と身につきました。
AIの出力を評価できるのは誰か

ここで少し視点を変えてみます。
議事録をAIに任せることは、多少の誤字脱字はあれど、現代の技術としては問題なく可能です。しかし、出来上がった議事録が「本当に使えるレベルか」「重要な点が漏れていないか」を判断できるのは、誰なのでしょうか。
一度も議事録を書いたことのない人が、AIの生成したものを見て「これで完璧だ」と判断するのは、実は見た目以上に難易度が高いものです。経験が浅い段階では、そもそも会議のどこが本質だったのかが掴みにくいからです。また、AIそのものも業界特有の専門用語や略語などまではさすがに把握できない場合もあります。
つまり、AIを真に効率よく使いこなすためには、その作業の「正解の感覚」を自分の中に持っている必要があります。
この「正解の感覚」がない状態では、AIが書き出したもっともらしい文章が、本当に正しいのか、それとも重大な論点を見落としているのかすら見分けがつきません。その結果、悪気はなくとも「AIが出したのだからこれでいいだろう」と、そのまま上司に提出してしまう(あるいは『最終チェックは上司の仕事だから』と割り切って通してしまう)ということが起こります。
確かに、チームの役割分担として「最終的なチェックと責任は上司の役割なのだから、自分はAIの出力をそのまま通すのが最も効率的だ」という考え方は、一見すると非常に合理的です。しかし、このアプローチは「短期的な効率」と引き換えに、「長期的なタイパ」を著しく損なうリスクを孕んでいます。 AIが作った「もっともらしい、それっぽい間違い」を自分の頭を通さずにそのままスルーし続けてしまうと、いつまで経っても「何が正解か」の基準が自分の中に育ちません。結果として、上司から修正指示(赤字)を入れられても「なぜ直されたのか」の背景が理解できず、同じような確認や手直しを何度も繰り返すという、最も非効率なループに陥ってしまいます。
これは議事録だけの話ではありません。報告書の作成でも、調査のまとめでもプレゼン資料でも同じことが言えます。AIがどれだけ優れた出力を生み出しても、受け取る側に判断の基準がなければ、良し悪しを見極めることができません。これは、先ほどでてきた「70:20:10の法則」における90%の成長の機会を自らの手で捨ててしまうことにもなるのです。
「AIを使いこなす」ということは、その出力を評価できるだけの経験と知識を自分の中に持つことでもあります。
指示の質もまた、経験の量で決まる

もうひとつ見落とされがちな点として、AIへの指示(プロンプト)の質も、自分自身の経験に左右されるという事実があります。
議事録においては、文字起こしや自動要約ツールで生成するため、評価だけで済みます。しかし、実際に実務で何かを生成させるとなると話は変わってきます。
例えば、新しいプロジェクトのために「〇〇業界の主要な競合企業についてリサーチして」という抽象的な指示だけでは、AIはネット上に転がっている企業の会社概要をただ羅列しただけのものを出力するでしょう。そこに「各社のシェアだけでなく、ここ1年で注力している新規事業と、その背景にある課題を根拠と合わせてマトリクス形式でまとめて」と的確に指示できるのは、他でもない、自分で泥臭く競合調査をしたことがあり、実務で何のデータが必要で、どこが抜けやすいかを身をもって知っている人だけです。
このように、AIに精度の高い仕事をさせるための「指示の引き出し」もまた、自ら手を動かして得た「何が正解か」という判断基準の量によって決まります。
何より、早い段階で「自分なりの判断の基準」を持てた方が、将来的にはあらゆる仕事をAIに丸投げできるようになり、自分の働く時間を最も効率化できるようになるはずです。効率化のツールに振り回される側で終わるのか、それとも本当の意味で使いこなす側にまわるのか。その分岐点こそが、若い時期にあえて一度、自分の手を動かして「正解の感覚」を掴んだかどうかにあります。
遠回りに見える地道な雑務こそが、将来、AIという超優秀な相棒を自在に動かし、自らの生産性を爆発的に高めるための最短ルートになる。それこそが、今あえて人間が手を動かす、最大の意味なのかもしれません。
「無駄」という直感も、正しい

ここまで「自分でやることの意味」を述べてきましたが、だからといって、世の中のすべての「AI禁止ルール」を肯定したいわけではありません。むしろ、新入社員の方が抱く「これって無駄ではないか」という疑問や違和感は、多くの場合、きわめて合理的な指摘でもあります。
効率的な手段が目の前にあるにもかかわらず、あえてその選択肢を制限されることは、当事者にとっては生産性を著しく下げられていると感じるものです。その合理的な違和感を「忍耐力が足りない」といった精神論だけで片付けてしまうことには、やはり無理があります。
というのも、実際に現場で敷かれているルールのすべてが、明確な教育的意図や育成プランに基づいているとは限らないからです。「前例がないからリスクを避けたい」という理由や、「これまではこの方法でやってきたから」という組織の慣行のまま、深く議論されないまま続いているケースは多いものです。
新入社員の立場からすれば、目の前の作業が「自分の成長に必要なステップ」なのか、それとも「単なる古い慣習の押し付け」なのかを判断するすべはありません。理由が明かされないまま、ただ「禁止」というルールだけを課されてしまえば、業務への納得感は失われ、せっかくの学びの機会もただ苦痛な時間として消費されてしまいます。
逆に言えば、「なぜ、いまこの作業をAIに任せず、自分の手を動かすのか」を、指示を出す側が明確に言葉にできて初めて、その不便さは意味を持ちます。
あえて制限をかけることで、当人にどのような視点を養ってほしいのか。その不便さはいつまで続くものなのか。そうした「目的」と「期間」が組織の側からきちんと提示されて初めて、一見すると非効率に映る雑務は、自らの意思で臨むことのできる「訓練」へと変わっていくのだと思います。

効率と学習は、はじめから別の話だった

AIが雑務をこなせるようになってから、ひとつのことが明確になってきたように感じます。
それは、「業務の効率を上げること」と「仕事を通じて学ぶこと」は、はじめから目的が違っていたということです。
AIは出力の品質と速度を日に日に高めています。今や同じ時間で、より精度の高い成果物を作れるようになっているのも確かです。しかし、仕事における学習の最終目的とは、「将来、どんな状況であっても、自分一人の力で『良いアウトプット』を出し続けられるようになること」のはずです。そのためには、初期の段階で「作る過程を通じて業務を理解し、何が正しいかを自分の頭で選ぶ判断力」を、あえて遠回りをしてでも育てておく必要があります。
目的が違うのだから、AIが優れているからといって、それが人間の学習の代わりにはなりません。
ここまで議事録という業務を例に考えてきましたが、これはあらゆる「雑務」に共通する本質でもあります。
資料の準備やリサーチ、日々の細かな調整といった業務には、その業務が発生する場でしか得られない非言語情報や経験が詰まっています。また、実践のなかでしか得られないフィードバックというものもあります。さらに、新人がその状況に身を置き、泥臭く関わろうとするからこそ、周囲の先輩や上司も「実はこの件にはこういう背景があってね」と、言葉を尽くして教えてくれるという側面もあるはずです。
このような、人と人との間で生まれるリアルな経験の価値は、AIが登場する以前から変わらない仕事の本質です。ただ、これまでは「単なる作業(成果物を作ること)」の忙しさに隠れてしまい、そのプロセス自体にどれほど豊かな学びが含まれていたのか、私たちはあまり意識してきませんでした。
しかし、AIが「成果物の出力」をあっさりと代行してくれるようになったことで、状況が変わりました。作業そのものが消えたことで、逆に「私たちが現場で手を動かし、人と関わることでしか得られなかった経験」の輪郭が、かつてないほど鮮明に浮かび上がるようになったのです。
効率化によって省けるものと、省いてしまうと後から取り戻せないものとが、ようやく分けて考えられるようになってきたように感じます。AIの普及は、雑務の意味を消したわけではなく、むしろその意味の輪郭をはっきりさせたのかもしれません。今起きていることは、「人間の仕事が奪われている」というよりも、「人間が担うべきことが、より明確になっている」という変化と言えるのではないでしょうか。

AI時代に、あえて手を動かしてみるということ

雑務を前にして「なぜ自分がやるのか」と感じることは、何もおかしくありません。特に、AIで済む仕事を手間をかけてやる場面では、その疑問はより鮮明になります。ただ、裏を返せばその感覚は、ものごとを主体的に考えている証拠でもあります。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば、自分の手で処理した情報は、自分の中に残るということです。うまく書けた出来栄えでも、そうでない出来栄えでも、それはあなたが経験したことになります。AIが生成した議事録を読み返すことは、その経験にはなりません。
会議室で感じた空気、どの発言が場を動かしたか、どこで議論の方向が変わったか。そういった記憶は、自分がその場で自分の頭で考えて手を動かしていたからこそ残るものです。それは数年後に、思わぬかたちで役に立つことがあります。
仕事の勘というのは、経験の積み重ねの中に宿るものだと、私は感じています。
仕事を任せる立場の方にとっても、「なぜこれを人間がやるのか」を自分の言葉で説明できるかどうかは、考え続ける価値のあることだと思います。説明できるとき、はじめてその仕事は学習の機会として機能しますし、説明できないとき、それは一度見直してみるサインかもしれません。
AIに任せていいものは、どんどん任せていい。
ただ、経験だけは効率化できないものの筆頭です。
自分の手が動いた記憶は、誰にも、AIにさえも、取られることはありません。


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